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「俊ちゃん」と慕った谷川俊太郎さんへ 阿川佐和子さんらが集う

谷川俊太郎さんのお別れの会で、あいさつする阿川佐和子さん=2025年5月12日午後4時30分、東京都千代田区の帝国ホテル、吉田耕一郎撮影

 昨年11月に92歳で亡くなった詩人、谷川俊太郎さんの「お別れの会」が12日午後、東京都内で開かれた。戦後現代詩を代表する詩人として活躍した谷川さんの人柄と作品をしのび、親交のあった詩人や作家らが集まった。

 献杯はエッセイストの阿川佐和子さんが務めた。谷川さんとの思い出を交えたあいさつは次の通り。

     ◇

 僭越(せんえつ)ながら献杯の辞を仰せつかりました。

 本当に今日はたくさんの方々がお集まりになっていて、私は正直なところ、阿川弘之の娘というのは何の自慢にもなりませんけれども、ひとつだけ人生の自慢は、谷川俊太郎さんの遠い親戚というのが自慢で、これを言うときだけは、声高らかに言いたくなるということを、この七十何年唱えてまいりました。

 いろんな方とお会いして、「谷川さんと初めて会ったのはいつ?」といわれたときに、「覚えてない」。というのは、物心付いたときには、谷川家に遊びに行っていたような気がして、これはなぜかというと、うちの母の父方のおじさんが、谷川さんのお母さまの妹さんかお姉さんか、要するにおばさんと、うちの母のおじさんが結婚して、谷川家の隣に住んでいたということがありました。

 そういう関係で、うちの母は東京女子大に行っていたんですけど、荻窪の学校に行く途中、行き帰りに阿佐谷の谷川家に、ちょくちょく女学生として遊びに行ったり、手伝いに行ったりしていたというところ。

 かたやですね、阿川弘之というのは広島出身なんですけど、高校時代から文学をめざしていたものだから、文芸部かなんかやっていて、そのときの講師に、ずうずうしくも(谷川さんの父親の)谷川徹三さんをお招きしたことがあると。よくそんなことができたものだと思うんですけど。

 それでお話を伺って、知り合いになったことがきっかけで、大学(進学)で東京に父が出てきたときに、東京に知り合いがいないもんだから、阿佐谷の谷川家にお訪ねして「高校時代にお世話になりました」って。まあ、自分が師と仰いでいた志賀直哉先生につないでほしいという下心があったに違いないんですけど、とりあえずは谷川家にちょくちょく入り浸るようになった。

 そのあと戦争になって、(父は)予備学生として戦地に行くんですけど、帰ってきたときにもまた谷川家に行って、「我々のせいで日本国は負けました」って言ったら、谷川おばあちゃまが「あんたのせいやないやん」って笑って「何を言っとるんだ」っていうふうにおっしゃったという話もありました。それぐらい高校時代から大学、戦後にかけて谷川家にちょくちょく行っていたときに、時々現れるお下げ髪の女子大生に目を付けて、結婚したというのが、私と父と母の出会いだったらしいです。

 それが紹介なのか恋愛なのか、そこらへんのところはよくわからないんですけど、あんな男を選んでくれなかったら私も心がなだらかでいられたのになあと思いながら、そういうこともありまして。

 ですから、谷川家に伺うというのは、ある意味で私にとっては、両親のお仲人さんのおうちのような、血はつながっていないけど、おじいちゃん、おばあちゃんのうちのような気持ちがして。最初から、私は幼いころから、谷川徹三さんのことを「谷川おじいちゃん」、谷川多喜子さんのことを「おばあちゃん」と呼んでいた。そこにいる息子は俊太郎さんで、母も父も「俊ちゃん、俊ちゃん」と呼んでいたので、後々私は週刊誌の対談で、谷川俊太郎さんをゲストにお招きしたときに、何とお呼びしていいか困って「俊ちゃん」と呼んだら「いいよ、それでも」って言われて、「佐和ちゃん」「俊ちゃん」ていう、70超えたのと、60くらいが「俊ちゃん」「佐和ちゃん」で対談したのも覚えていますが、それだけが心にすごく深く残っています。

 詩人として、いろいろなお仕事をなさったというのは、これからの皆様の、もうちょっと若い方々のスピーチでいろいろ披露されると思いますので、私は一言だけ申し上げたい。

 このお別れ会の盛大さを、盛大って言っていいんですかね、こういうときにね。うちの父の3倍くらいの人が集まっているな、と思って。それほどのたいへんな俊太郎さんをしのぶ方がいらっしゃるということと、これほどの会を開くために、ご長男の賢作くん、いまニューヨーク住まいでいらっしゃる(長女の)志野さん、ご家族のみなさん、あるいは秘書をやっていらっしゃる川口さん、それぞれのスタッフの方々がどんなに大変で、これからも結構大変だということをどうかみなさま、2世の立場として。うちは大したことはないんですよ、もう全然本売れてませんけど。谷川俊太郎さんの本は、これからまた大変な、そういう意味では谷川俊太郎さんは亡くなっていないという気がするので、どうかそれの地上でのお世話係としてのご子息やお嬢さま、ほかのスタッフの方々をぜひとも温かく見守っていただきたいということだけを申し上げておきたいと思います。

 そろそろ3分過ぎちゃったので、みなさまのお手元にはグラスはございますでしょうか。

 ご家族の前で申し上げるのもなんですけれども、俊太郎さんは3回結婚していらっしゃいます。あるとき、俊太郎さんに伺ったら「詩人は多いんだよ、離婚、結婚が」とおっしゃったんですけど、そういうまとまりでいいんですか? 今日、詩人の方いらっしゃいますけど。

 ではみなさまどうぞ。俊ちゃん、あいうえおの「あ」だけじゃなくて、たくさん戻ってきて下さい。では、みなさま、献杯。

 昨年11月に92歳で亡くなった詩人、谷川俊太郎さんの「お別れの会」が12日午後4時すぎ、東京都内で始まった。戦後現代詩を代表する詩人として活躍した谷川さんの人柄と作品をしのび、親交のあった詩人や作家らが集まっている。

 「谷川俊太郎さん お別れの会」は、朝日新聞社や出版社、計20社が発起人となった。祭壇には谷川さんの遺影が飾られている。開会に先立って、関係者が花をささげ、手を合わせた。

 会では、作家の阿川佐和子さんによる献杯や、詩人の吉増剛造さんによるあいさつのほか、谷川さんの長男で音楽家の谷川賢作さんがピアノを演奏する。

(伊藤宏樹)朝日新聞デジタル2025年05月12日掲載