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「モノクロの街の夜明けに」訳者・野沢佳織さんインタビュー 高校生がスパイに? 小説を入り口に歴史を見つめて

『モノクロの街の夜明けに』(岩波書店)

17歳の高校生がスパイになることを強いられる

――『モノクロの街の夜明けに』は、17歳の男子高校生クリスティアンが校長先生に呼び止められるところから、物語がはじまります。学校の事務室に入ると、そこには秘密警察、セクリターテの諜報員が待っていて……。冒頭からミステリーのような展開ですね。

 舞台は1989年の東欧、チャウシェスク独裁政権下のルーマニアです。主人公のクリスティアンは、リリアナという同級生の女の子にほのかな恋心を抱き、友達もいる、ごく普通の高校生です。それなのにいきなり諜報員に「きみが何をしたか、知っているぞ」と脅される。そして病気のおじいちゃんの薬と引き換えに、密告者になるよう迫られます。

――なぜスパイのようなことをさせられることになったのでしょう。

 チャウシェスク政権時代、ルーマニアでは違法とされることがたくさんあり、秘密警察には絶大な権力がありました。外国人との交流は禁止。生活について大声で不満を言うことも、外国のラジオ放送を受信することも規則違反……。

 そんな中、クリスティアンのお母さんが掃除の仕事をしているアメリカ人外交官の家で、その息子と知り合いになり趣味の切手を交換したところ、知らぬ間にアルバムに米ドル札が挟まれていました。セクリターテにそれを「違法取引の刑罰は、家族全員に及ぶ」と脅され、さらにおじいちゃんに必要な薬をほのめかされ、「そのアメリカ人一家について密告するように」と要求されるのです。

『モノクロの街の夜明けに』(岩波書店)より

歴史を題材にしたフィクション

――物語は実話なのでしょうか。

 実話ではなくフィクションです。作者のルータ・セペティスさんは、歴史上の事柄を題材にした物語創作、「ヒストリカル・フィクション」と呼ばれるジャンルで英語圏では有名な作家です。毎回作品ごとに、徹底的に資料を読み込み、舞台となる現地に赴き、その時代を生きた100人近い人たちにインタビューをすることでだんだん物語の場面や登場人物のイメージが形作られていくそうです。

 本書では1989年12月に起きたルーマニア革命を題材に、当時革命を体験した多くの方々に取材をしたそう。ルータさんはリトアニア系のアメリカ人で、英語で執筆されていますが、その著書はヨーロッパ各国をはじめ60以上の国で出版されています。本書はルーマニア語にも訳され好評だと聞いています。

――はじめて英文で本作品を読んだときはどんな感想を持たれましたか。

 クリスティアンは、独裁前のルーマニアを知っているおじいちゃんの影響もあり、ラジオで海外の放送を聞こうとしたり、こっそり英語の印刷物を読んだり、アメリカ映画を見に行ったり……周りの子たちと比べると、自由を求める気持ちがすごく強いですよね。

 周りの誰を信じていいのかわからない、先も見えないという息の詰まるような物語の中で、主人公のクリスティアンの不安や痛みに寄り添い、ハラハラしながら、早く解放される日が来るといいねと祈るような気持ちで読んでいきました。

「平和でないこと」が残す傷跡

――国から与えられた団地の一室は、狭く、しょっちゅう停電し、ひどく寒い。食料は足りず、長時間並んで買えるのはたったひとつの缶詰。人々が密告を恐れ小声で話す様子が伝わってきます。戦争状態ではないけれど、平和とも言いにくい状態ですね。

 一般の人たちは「今、自分たちの国は、平和で暮らしやすいな」とは思っていなかったでしょうね。チャウシェスク政権がブルドーザーで街の家々を破壊したとき、行き場をなくした犬が野犬となり、子どもが襲われることもしばしばあったとか。生産した農産物の多くが輸出に回され、国内ではお腹を空かせながら、規則違反に目を光らせあう社会ですから。

――せっかく気持ちが通じ合うようになってきた同級生のリリアナから、クリスティアンがある日「うそつき」と言われる場面もあります。

 ごく親しい間柄でも、秘密警察の目を意識し、「裏切っているのでは」「裏切られているのでは」と疑いを抱かずにはいられない……。耐え難い苦痛ですよね。

 原書のタイトルは『I Must Betray You』。あなたを裏切らなくてはならない。英語だと誰もが「I」に当てはまり、誰もが「You」になり、まさに作品の世界を表現しています。ただ日本語に訳すと「ぼくは、きみを」としても「わたしは、あなたを」としてもイメージが限定されてしまう。なので、タイトルの直訳を避けて『モノクロの街の夜明けに』としました。

原書『I Must Betray You』

――初めての恋愛や友情の中で、密告を疑い合うという傷を抱え、思春期を過ごし大人になった人がたくさんいるということなのですね。

 チャウシェスク政権下で青春期を過ごした人は、おそらく何百万人にもなるのだと思います。当時、ルーマニア国民2300万人の10人に1人が密告者だったという記録があるほどで……想像しがたいですよね。実際、ルータさんが話を聞かせてほしいと言ったとき、取材に応じた方の多くが「名前は伏せてほしい」と言ったそう。一緒にカフェに入って30年前の話を聞きはじめようとするとき、被取材者がテーブル上の灰皿をひっくり返す場面もあったそうです。彼らは、今は盗聴器がないとわかっていても、それでも確認してしまうと。

ルータ・セペティス作品を3冊訳して

――野沢さんが訳を手がけたルータさんの作品は『灰色の地平線のかなたに』『凍てつく海のむこうに』に続く3作目となります。最初のきっかけは?

 編集者から、彼女のデビュー作『灰色の地平線のかなたに』を読んで感想をきかせてほしいと依頼があったのがきっかけです。第2次世界大戦時に大勢のリトアニア人がソ連によってシベリアに抑留された歴史を題材にしたフィクションですが、冒頭からあっという間に引き込まれ2日くらいで読み終えました。私のそれまでの最速の5日ほどで翻訳提案のレジュメを書き上げ、すばらしい作品なので日本でも出版するべきだと伝えました。

『灰色の地平線のかなたに』(岩波書店)

 ルータさんが来日されたときは一緒に都立高校を訪れてブックトークをしたり、児童書専門店でトークイベントをしたりと、日本の読者との交流に立ち会うことができました。そのご縁もあって、続いて『凍てつく海のむこうに』を訳し、今回の『モノクロの街の夜明けに』の訳につながっています。

 彼女はもともと音楽業界でマネジメント業務に関わるなど異色のキャリアを持つ人ですが、今や「crossover novelist(クロスオーバー・ノベリスト)」と呼ばれ、中高生から大人まで幅広い年齢層に読まれる小説家として英語圏では認識されています。『凍てつく海のむこうに』は2017年にカーネギー賞(イギリスの図書館協会から贈られる児童文学賞)を受賞しています。

『凍てつく海のむこうに』(岩波書店)

来日時のルータ・セペティスさん(左)と=野沢さん提供

――野沢さんの翻訳者としての経歴もお聞かせください。

 大学の英文学科を卒業後、自動車メーカーに勤務したのち、結婚した夫の仕事の関係でイギリスのロンドン郊外、オーストリアのウィーン、ハンガリーのブタペストに数年ずつ住んだことがあります。ウィーン在住時、子どもが通うインターナショナルスクールの図書室のボランティアでたくさんの児童書に触れたことで、翻訳家になりたいと思いました。

 その頃、ロバート・ウェストールの『弟の戦争』などいくつかを原書で読み、感動しました。当時日本語訳されていたウェストール作品の中では金原瑞人さんの訳が好きだと思ったので、帰国後は翻訳学校で金原先生のクラスを受講し、下訳をさせてもらいながら経験を積みました。

 私自身は『あらしの前』『あらしのあと』(ドラ・ド・ヨング作、吉野源三郎訳、岩波書店)というオランダの児童文学を子どもの頃に好きになり、第2次世界大戦中のヨーロッパの一般家庭に興味を持ったことが、大人になって海外の歴史小説を手に取ることにつながったかなと思います。

――ルータさんの作品3作目を訳し終え、今どのように思われますか。

 ルータさんが『灰色の地平線のかなたに』のあとがきで書いているように、歴史の渦中にいるとき、歴史の当事者がその歴史を語ることはなかなかできません。しばらく時間が経っても、まだ話せないということだって現実にあるのです。

 私は、親が太平洋戦争を体験した世代なので、子どもの頃から「あなたたちは幸せなのよ」と言われて育ちました。クリスティアンは逆で、独裁前のルーマニアを知るおじいちゃんに「昔は違ったんだよ」と言われながら育ちます。でも現実はどこで盗聴されているかわからないから、たとえ家の中でも政権に批判的なことは口に出さずに紙に書いたりします。昔、日本でも批判的な意見を口にすると「非国民」と糾弾された時代と通じるなと思います。

ヒストリカル・フィクションを、歴史を見る窓に

――政権が変わると「社会の常識」が変わることがあるのだと感じます。

 私はベルリンの壁ができた1961年生まれで、壁が崩れた1989年に息子を出産しました。1989年は、日本では昭和から平成に変わった年でもありました。ベルリンの壁崩壊後、東欧の国々の民主化が雪崩を打つように進む様子を伝える、テレビのニュースを、息子を膝に抱きながら見ていたことを覚えています。

 遠い日本からは、順調に東欧の民主化が進んだかのような、勝手なイメージを抱いていました。でもルーマニアでは市民の血が流れ、多くの犠牲があった。当時の私は、物事をちゃんと知ろうとしなかったと反省しています。けれど、ニュースや学校の世界史では、戦争や革命のとき普通の人たちはどうしていたんだろう、どんな気持ちで生活していたんだろうということはなかなかわからないですよね。

――ルーマニアの現状を世界に知ってほしい、でも知っても誰も手を差し伸べてくれなかったら? と、クリスティアンが希望と絶望に揺れるシーンに胸を突かれます。今のウクライナやガザにも同じような人たちがいるのではと……。

 過去の歴史と同じようなことは、今も起こっています。事実を知ろうとすると同時に、ヒストリカル・フィクションを通じて、主人公たちの会話や感情から当時の状況を想像することも、現在進行形の歴史を理解する一助になると思います。

 ルータさんは「私のフィクション作品を、歴史を見る窓と思ってくれたら嬉しい」と言っています。作品を入り口とし、さらに興味を発展させてほしいと。

 36年前のルーマニア革命は、子どもにとって遠い昔かもしれませんが、「今の自分の暮らしとはずいぶん違うな」と感じる一方、「この子が感じたり考えていることは、意外と自分と近いな」と発見することもあるのではないでしょうか。

 物語を読むと、知らない場所、知らない時代を、主人公と一緒に生きる体験ができる。訳者の私の心のどこかにもクリスティアンたちがずっと生きていて、落ち込んだり悩んだりしたときに出てきて励ましてくれます。

 そうした読書体験が、自分とは違うバックグラウンドで生きてきた人と接するとき、寛容さ、柔軟さ、フェアな考え方につながり、人間関係に生かされるんじゃないかと期待しながら訳しています。社会が平和であることは、きっとその先にあると思います。

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