200キロ先の捕虜収容所に父を探す、少年と犬の旅
――『この銃弾を忘れない』は、1930年代のスペイン内戦下、戦時中の少年や人々の様子があざやかに立ち上がってくるYA小説ですね。
この本は、13歳の少年ミゲルが、愛犬を道連れに、捕虜収容所の父を探して内戦下のスペイン北西部を旅するという、実際にあった出来事をもとにしたYA小説です。
スペイン内戦は画家のピカソが「ゲルニカ」を描いたことで聞き覚えのある人もいるのではないでしょうか。悲惨な内戦で、作家も含めたくさんの人が国外へ亡命し、内戦は1939年にフランコ将軍側の勝利となります。反フランコの人々への迫害は独裁期まで続き、そうした人が山に潜んでいるというモチーフがこれまでスペイン文学では繰り返し書かれてきました。人々が安心して暮らせるような民主的社会が確立するのは1978年の憲法制定以降です。
――主人公のミゲルは、内戦で村を出た父を探すため、愛犬グレタと一緒に200キロもの旅をします。
舞台となるスペイン北西部の山岳地帯は、雨が多く緑豊かで、標高1000メートルを超える山が連なり、夏でも涼しい土地です。13歳の子が200キロもの道のりをいくだけでもすごいのに、山にはオオカミもいるし、兵士やゲリラが潜み、出会った相手が敵か味方かもわかりません。次々いろんなことが起こるので、私もはじめて読んだときはハラハラドキドキしながら、読む手が最後まで止まりませんでした。
反乱軍が制圧する村から出る男たち
――炭鉱夫だったミゲルの父さんは、反乱軍(フランコ将軍側)が村を制圧したため、共和国政府を支持していた仲間たちと「民主主義を守る戦い」に身を投じ、それきり行方がわからなくなります。
1931年から民主的な社会改革を推し進めていた第二共和制政府に対して、1936年7月に富裕層や教会の支持を得た、ファシズムを思想の基盤とする軍部がスペイン各地で一斉に蜂起して内戦になっていくのです。ミゲルの父親のような炭鉱労働者は、内戦前から労働条件の改善を求めて闘ったことで知られています。
反乱軍に制圧された村では、反乱軍に加わりたくない男の人は逃げて隠れるか、共和国軍かゲリラとして戦うしかありませんでした。大勢が捕まって銃殺され埋められたり、戦闘で敗れて捕虜収容所に入れられたりしました。
幼い子どもでも大人でもない
――村は沈黙に覆われ、残っているのは子どもと女と、村を支配している反乱軍の兵士や治安警察です。ミゲルは進学をあきらめ、きょうだいの一番上として母さんを助けながら牛の世話をして働いています。ある日、炭鉱で父さんと一緒に働いていた男が村に帰ってきて、父さんが遠く離れた町の収容所に入れられているのを見た、と言います。すると母さんはミゲルに「父さんのところへ食べ物を持っていって。できたら一緒に家に帰ってきて」と言い出します。
ミゲルは一番上の息子なので母さんに頼られているんでしょうね。だからといって何百キロも先の、どこにいるかもはっきりしない父さんを「連れて帰ってきて」と13歳の子に言うのは、あまりに無謀というか、母親としてちょっとひどいんじゃないかと思ってしまうんですけど……。
――それくらい追い詰められていたということでしょうか。
そうですね。父さんがいなくなった後、母さんは警察に連れていかれ、頭を丸ぼうずにされて、殴られ、ヒマシ油(飲むとお腹を下す)を飲まされるという拷問を受けますから……。
――一度は旅の食料の入った袋を母さんに突き返すミゲルですが、母さんと弟たちの願いに押され、とうとう「父さんを連れて帰ってくる」と言って出発します。
13歳と犬だからこそ、戦地の山の中を行けるんです。両軍ともまだ敵と見なさないから。でも大人なら命の保証はない、すごく危険な旅です。
――野宿続きで、食べ物も尽き、犬のグレタが心の支えです。困難な旅の中でグレタとの信頼関係は、魅力的な場面がたくさんありますね。
愛情深くて賢い犬のグレタは、ミゲルにどんな時も寄り添います。グレタがいるから和むんですよね。グレタがいてくれるおかげでつらい物語を最後まで読み切れると言ってもいいくらいです。
――父さんを見つけても、最後の最後までいつ殺されてもおかしくない状況が続きます。
ミゲルが、移送される父さんの後をついていこうとする場面があります。「ぼくが歩き出そうとしたとき、おじさんははっとした顔になった。薄汚れたかっこうをして、自分がどこにいるかもわからずに、古いアコーディオンをかかえて捕虜についていく、ひとりぼっちの少年。「だれが連れていかれたんだ?」「父さんです」何も考えずにぼくは答えた。おじさんは、背負い袋をさぐってチーズをとり出し、差し出した。「途中で食いな」食べ物もなしに家族の後を追っていくのがどんなにつらいかをわかってくれる親切な人が、まだこの世にいたのだった」……と。出発したとき夏だった季節は秋に移り、ミゲルもこの間に背が伸びている。でも、中身は急に変わるわけじゃなく、まだ子どもですよね。
――戦争の過酷さは10代の子たちに、子どもでいることを許さない。心の中はどうしたらいいのかわからない思いでいっぱいのミゲルの様子が伝わってきます。
幼い子どもじゃない、かといって大人でもない、13歳から14歳という年齢のミゲルが、全編を通じて、実にテンポのいいリズムで描かれています。恋と呼べるかどうかわからないようなほのかな恋の描写がちらほらあり、それも物語の印象的な場面です。
本を探す楽しみ
――そもそもこの作品を訳そうと思ったのはどんなきっかけがあったのでしょうか。
スペインの最新の出版物を日本に紹介する「ニュー・スパニッシュ・ブックス」というプロジェクトの、2018年のリストの中に本書があって。作者のマイテ・カランサさんは現代のスペインの人気児童文学作家の一人だし読んでみようかなと。実際に読んだら、短い章立てでぐいぐい進む物語の力に魅了されました。
東京外国語大学のスペイン語学科で「YA(ヤングアダルト)文学講読」の講師をしていたので、原書を学生たちと一緒に読んでみると、内戦中の人々の暮らしや山間部の状況などを初めて知ったと言われ、好評でした。少年と犬の冒険を楽しみつつ、歴史書だけでは見えない内戦の実相をリアルに感じてもらえる作品ではと出版社に持ち込んだところ、翻訳出版できることになりました。
2年半の子連れスペイン留学
――宇野さんはなぜスペイン語の翻訳家になったのでしょう。これまでの経歴を教えてください。
なぜスペイン語かは、大学でスペイン語を専攻したからという答えになってしまうのですが。はじめて翻訳という職業が世の中にあることを意識したのは中学生の頃です。外国の物語を日本語で読めるようにする仕事はかっこいいなと、翻訳家に憧れました。ただいきなり翻訳家にはなれないし、大学卒業後は経済的に自立したかったので、まずは出版社に就職しました。辞書部門に配属され7年ほど在籍。結婚後も仕事を続けましたが、結局、出産を機に退社しました。
20代の頃スペインを訪れ、現地の本屋さんで人気の児童書を10冊くらい教えてもらって、買って帰りました。どれもけっこうおもしろくて、日本語に訳されていないこんな作品があるなら、これから仕事にできる余地があるんじゃないかと。子育てをしながら勉強するうちにチャンスをいただき、1995年に刊行された『アドリア海の奇跡』(徳間書店)が翻訳家デビュー作となりました。
――子育て中に翻訳家への道を歩みはじめたのですね。
実際、翻訳をはじめると、もっとスペインの土地や暮らしを知りたい、現地の書店や図書館で本をじっくり探してみたい、スペインの児童文学を理論的に語れるようになりたいという思いが募っていきました。「留学したい。でも3人の子どもたちが大きくならないと行けないだろうな」と考えていたら、あるとき作家の森まゆみさんが須賀敦子さんの思い出を語った文章に出会って。須賀さんが森さんに「あなたみたいな人は一度は外に出るべきよ。(子どもを)3人連れていってもいいじゃない」と強くおっしゃった、という箇所を読み、「そうだ、悶々としているのはやめてとにかく子どもと一緒に行ってみよう」と決心しました。
調べたらバルセロナ自治大学に、私が学びたいスペインの児童読み物に詳しい女性の教授がいることがわかりました。手紙を書くと、受け入れると返事があり、子どもたちの学校もなんとかなりそうでした。いつか大事なことに使おうと結婚前に組んでいた10年満期の保険が満期を迎えていたことと、児童文学を学びたいとプレゼンした結果、スペイン外務省から得られた奨学金が頼りになりました。
5歳、7歳、9歳の子どもを連れてバルセロナに降り立ったのが1999年。憧れの街で念願叶っての留学でしたが、バルセロナは実はスペイン語ではなく、もともとカタルーニャ語が話される街。スペインには一般的にスペイン語と呼ばれるカスティーリャ語以外に、カタルーニャ語、ガリシア語、バスク語と成り立ちの違う全部で4つの言語があって、私は、スペイン語と似ているけれども別の言語であるカタルーニャ語も一から学ばなければなりませんでした。子どもたちの方はというと……やっぱり大変でした。悩んだら動けなかったからあのときは思い切るしかなかった。とはいえ、子どもたちもよく頑張ってくれたなと思います。
たとえばお昼休みが長いスペインの小学校は、昼に子どもたちが一度家に帰ってきてご飯を食べるのですが、1日2往復の送迎だけでも私も疲れてしまう。大学院の授業がある日は学校で昼食をとってもらっていましたが……。もっと勉強もしたい、でも母親の都合で外国についてきてくれている子どもたちに、せめて学校から帰ってきた後は向き合いたい。子どもが寝てから必死で勉強し、睡眠時間は相当短かったです。
2年半の留学は自分の力不足に打ちのめされそうになる格闘の日々でしたが、児童文学の研究者と交流したり、本を読んだり、学会に顔を出したりと大切な経験を積みました。このときスペインの児童文学についてたくさん学んで修士号を得たことは自分にとって大きな財産になりました。
日本とスペイン語圏を、作品を通してつなぐ
――スペインの児童書を日本に紹介するだけでなく、日本の児童書をスペインに紹介することもあるそうですね。
広島の原爆の遺物たちが語りべとなって、ピカドンが落ちた「あの朝のこと」を語りだす写真絵本『さがしています』(アーサー・ビナード作、岡倉禎志写真、童心社)を、スペインの出版社に紹介しました。スペイン語の仮訳をつけ、いい絵本だから読んでみてほしいと。それが戦後80年目となる今年、『LA ESPERA』(待っている)としてスペインで出版されました。これからも、チャンスがあれば、日本のいい作品をスペイン語圏に紹介していきたいと思っています。
――翻訳という仕事のおもしろさはどんなところにあるのでしょうか。
翻訳は、作品を深く読み込み、ふさわしい表現を探すところに醍醐味があります。これまで訳した本は、子どもの本と大人の本を合わせて70冊ほどになりました。今はビジネス目的で外国語を学ぶ人も多いと思いますが、外国の文学を通して、日本とは異なる人々の考え方や心理、文化・歴史や価値観を知ることは、生きる力にもつながる気がします。
作品を選ぶ基準は、他者への好奇心です。人はついつい「わかる」ものを頼りがちですが、「わからない」ことが想像力や寛容につながります。これからも多様な作品に挑戦して、若い読者に届けていけたらと思っています。