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堀川理万子さん「いま、日本は戦争をしている」インタビュー 戦争を生きた「子ども」の心のありようを現代の子どもたちへ

17人の「子ども」と、消えなかった戦争の記憶

――『いま、日本は戦争をしている―太平洋戦争のときの子どもたち―』は、太平洋戦争当時子どもだった方々にインタビューしてそのお話をもとに描いています。ということは、もうご高齢の方々ですね。

 終戦から80年が経つので、80代後半から90代の方々です。そのとき子どもだった方々が見た光景や経験を、絵と文で表現しました。文章は、当時のその子の口調や言葉になるべく近づけたいと思って書いています。

――北海道から沖縄、さらには、樺太(現サハリン)、満州まで、17人の方々が登場します。そのうち4人の方は、本の完成前に亡くなられとか……。

 取材を始めたのは4年前でしたが、沖縄の比嘉義秀さんは、取材を受けてくださると決まったとき、息子さんが「とにかく早く来てください」とおっしゃったことを覚えています。ご自宅でお話を聞き、夜に宿で調べものをしながら鉛筆でラフを描き上げ、翌日見ていただきます。いったん東京に戻り、しばらくしてから色を塗った絵を見てもらうために再訪問したのですが、そのときは「こんなきれいな、絵みたいなの(風景)じゃないよ」と強く言われました。

『いま、日本は戦争をしている』(小峰書店)より

 米軍のはげしい艦砲射撃で、でこぼこの地面、木々がちぎれて散らばる中に、どんなふうに何人も倒れていたか、お宅に絵の具を持ち込んで、ご本人の目の前で絵を描き直しました。最後には「ああ、この絵だったら、一緒にいた子も、あの場所だねって言ってくれるよ」と安心したようにおっしゃいました。両手で「OK」の丸印を作ってくださって……。その後、87歳で亡くなられました。

『いま、日本は戦争をしている』(小峰書店)より

 満州からの引き揚げの話をしてくださった新井信さんも88歳で鬼籍に入られました。満州で生まれ9歳で日本に引き揚げ、戦後の出版業界で活躍された、敏腕編集者でもありました。最初は「あまり話したくないな」とおっしゃったんです。でも「子どもが読む本にしたい」とお願いすると「子どもが読むものになるなら、いいよ」と話してくださいました。

 茨城に疎開していたときに名古屋コーチン(ニワトリの品種名)のコココと仲良しだった村田あき子さんは、戦後80年の間、卵や鶏肉を食べないわけを話してくださって、91歳で亡くなられました。

『いま、日本は戦争をしている』(小峰書店)より

 島根から働きに出てきて、14歳で広島電鉄の女子校の寄宿舎にいた笹口里子さんは、原爆が落ちたとき食堂でご飯を食べていたそうです。ぱあっとあたりが明るくなった後、気づくと柱の下敷きで、這い出して避難する途中、ふと保育園の鉄棒を見つけて、友達とくるんくるんと回ったんですって。その話を聞いたとき「この本の表紙の絵にしたい」と思いました。どんなときも遊ぶ子どもの生命力を感じ、ご高齢になられても朗らかでチャーミングで……笹口さんも94歳で亡くなられました。

――65のエピソードをたどる、128ページという大作です。

 これまで、絵本や児童書がひとつ完成するたび、「できた!」という充実感と喜びがありました。でも今回は手放しでは喜べない……複雑な気持ちです。

 お話を伺っているとだんだんその方の小さい頃の姿が見えてくる。絵を描きながら、どの子もみんなかわいくて。「こんなかわいい子を傷つけて……」と戦争というものに腹が立って腹が立って、仕方なかったです。制作中は怒りと悲しみをずっと抱えていました。画家の自分には、絵の中で子どもを傷つけることのダメージが日に日に伸し掛かり、体調を崩しながらも、なんとか筆を止めずに描き切ることができました。

 けれど、「完成するのが楽しみ」とこんなに言っていただいたこともなかったんです。取材を受けてくださったみなさんが、本ができるのを心待ちにしてくれて。最後の最後まで、ご本人の記憶を再現したものに近づけるため、ご家族もたくさん協力し応援してくださいました。亡くなられた方には「間に合わなかった」というじくじたる思いは少しはありますが、ちゃんとそれぞれの方のページに最後にOKをもらうまでは見届けていただいたので。それを思うと……描くことができてよかったと心から思います。

父が犬の鼻を舐めたこと、米を盗まれたこと

――そもそもなぜこの本を作ることになったのでしょう。何かきっかけがありますか?

 コロナ禍の頃、公募展に絵を出そうと思って、いろいろ考えるうちに、「そうだ、父の子ども時代の戦争のことを描こう」とひらめいたのがきっかけです。おでん屋台に集まるのら犬をかわいがっていた父は、犬の鼻を舐めてジフテリアにかかり、隔離病棟で開戦のニュースを知ったと昔から聞かされていました。幼い子って、気に入った話を何度も聞きたがりますよね。「お父さん、犬の鼻を舐めちゃって病気になったんだよね?」と繰り返し聞いたものでした。もうひとつ父が語っていたのは、終戦後、食糧難で親戚にお米をもらいに行った帰り、駅で寝入った隙にお米を盗られたこと。「子どもから大人が盗むなんて」と、父は思い出しては、憤慨していました。

『いま、日本は戦争をしている』(小峰書店)より

 昭和20年頃の地図と照らし合わせながら、おでん屋台があった通りの絵を描いて、父に見せると、「車や人が通るから、砂利は道に均一に散らばるんじゃなく、大きい石は隅の方に偏ってるんだよ」と具体的に指摘されました。描き直すと「ああ、こんな感じ」と褒められたのが面白くて「描いた絵をチェックしてもらうのは大事だな」と。ありがたいことにグランプリをいただくことができました。副賞としてアートギャラリーで個展ができるということだったので、疎開をした方などからもっとお話を聞いて絵を増やし、個展会場で小さなパンフレットを作って配ろうかと考えました。

 編集者にその話をすると、パンフレットじゃなくちゃんと本に残すべきでは、と言われたんです。本にするなら空襲・原爆・地上戦・引き揚げといった、日本人が体験した大きな出来事も入れたほうがいいと……。正直、そこまでは無理ではないかと不安になりました。当初は「疎開の話をもっといろんな人から聞きたいな」という気軽なものだったからです。でも伝手を探るうち、だんだん日本全国に取材に協力してくださる方々が見つかり「描くしかない。描いて残そう」という気持ちになっていきました。

「その日」と「その後」

――それぞれのページに、17人の方々が記憶する場所、日付や季節、そのときの年齢が記されています。

 引き揚げ者は逃げてくるときに「写真は持ち出し禁止」とされたことも多く、当時の写真はほとんど残っていないんです。でも当時の記憶をとどめるために、日付のメモや記録を残していたり、ご自分でスクラップブックを作って新聞などを保管したりしていらっしゃる方もいて。日付がわかると街にソ連の戦車隊が入ってきた日や、引き揚げ船が港についたその日の天気や気温を調べることができます。絵を描くとき、そういった個人の資料がすごく助けになりました。

 船、戦車、民間トラック、軍用車、飛行機なども調べられる限り当時の型を調べました。模型を探して組み立てたり、稼働年によって変わる船のペイントを調べたり……。また、当時の地図を編集者が見つけてきて、その地図を指し示しながらお話を伺うと、記憶の細部が生き生きと蘇ってくるようでした。

『いま、日本は戦争をしている』(小峰書店)より

――原爆を経験した方は、描かれた場面の数も多いですね。

 広島の今中圭介さんは8場面(12ページ)と最も多くなりました。私の大学時代の同級生の、お父さんです。原爆ドームから近い場所に家があったのにも関わらず、疎開のおかげで家族が助かったように見えました。でも弟が病気で亡くなり、その次にお父さんが、お姉さん2人も亡くなったり行方不明だったりで、さらに何年かして祖父母も亡くなって……8人家族だった今中さんは、戦後はお母さんと2人家族になったそうです。

家がなくなったため、9歳の今中さんは、原爆の熱で変色しぶつぶつができた元の家の屋根瓦をリヤカーで重い思いをしながら運んで、新しい家の屋根に載せたとか。「大人になるまでずっと原爆瓦の家におれは住んでいた」と今中さんはおっしゃっていました。

『いま、日本は戦争をしている』(小峰書店)より

――つらい後悔の記憶が語られている場面もあります。

 長崎の榊安彦さんは、原爆が落ちたとき家の縁側にいました。額のあたりをケガしたために血だらけで、お母さんに背負われ防空壕に避難しました。そこには大火傷で体の半分が紫になったフミコ姉ちゃんが横になっていました。8歳の榊さんは思わず「姉ちゃん、きみわるか」と言ってしまいます。姉ちゃんは「安彦は、大丈夫と?」と優しく聞いてくれたのに。

 取材後はじめて絵を持っていったとき、榊さんが「フミコのことが描かれてない」とおっしゃいました。この本は、お話してくださったご本人が見た光景と、客観的なその子を含めた情景を描いています。なのでフミコさんが防空壕で横になる絵はフミコさんが中心になってしまう……と葛藤しました。でも榊さんは、「僕がこうやってお話するのは、フミコという女の子がいて、その子が原爆で亡くなったことを伝えるためなんだよ」と。「だからフミコのことが描かれないのなら、意味がないんだ」とおっしゃるんです。私も覚悟を決めて「フミコ姉ちゃんの服はどんな状態でしたか」と聞くと「焼けちゃって、ないんだよ」と。火傷で裸の女の子を描くのはつらくて、榊さんに「こんなふうに描いてもいいですか」と確認しながら、光や絵の具の効果を使いながら、自分の持つ技術を最大限使って描きました。

「あのときは悪かったと。姉ちゃん、かんにんね」と言いたかった思いを榊さんは生涯抱えている。その会話が榊さんを苦しめているんですよね。今もずっと……。それがあったから絵を描かせてくださったのだと感じました。

『いま、日本は戦争をしている』(小峰書店)より

戦争の記憶は、日常の記憶

――田んぼの代かきをしたり、水車のある水路でパシャパシャと水遊びをしたり、日常の絵も描かれています。

 当時「子ども」だった人たちの毎日は、たとえ戦争中でも、意外とおもしろいエピソードや、今の私たちと変わらない様子が伝わってくる、ふふっと笑ってしまうお話もありました。お気に入りの模様のワンピースをお母さんに黒く染められちゃってガッカリしたり、疎開先で田んぼ仕事に自信をつけたり。戦後、ソ連領となった樺太で、移り住んできたソ連の将校一家とひとつ屋根の下で暮らすことになり、同じ食卓でおいしいピロシキを食べたり……。敵方のはずのソ連将校一家との同居は「こんなこともありえたんだ」とびっくりしました。

『いま、日本は戦争をしている』(小峰書店)より

 戦争を生き抜き、長生きしてお話を聞かせてくださった方々からは、「子どもはひどい状況でも楽しみを見つけられることもある」「見つけるしかなかった」という力強さを感じ、ホッとすることもありました。でもその一方、「生き抜けなかった子どもたち」のこともたくさん感じながら、その子たちの絵を描きました。描きながら何度も泣いて、涙で絵の具がにじむたびに修正して……彼ら・彼女らの存在感を絵筆に込めました。

――かつて確かに戦争があって、たくさんの亡くなった子どもたちが日本にいた、それをこの本は思い出させてくれます。

 戦争は、平和が失われるということ。平和が失われるということは、日常が一変するということです。家族や、友達や、身近でよく顔を見ていた人が急にいなくなる。自分さえも、一瞬で、この世からいなくなってしまうかもしれないということです。

 私はこの本を作ることで、戦争のことをもっと知りたいと思うようになりました。調べていくと、太平洋戦争の開戦と言われる真珠湾攻撃よりも前に、中国で日本の軍が起こした、柳条湖事件(満州事変の発端)がはじまりだったこと。実は真珠湾攻撃のわずか半年後のミッドウェー海戦で、日本軍が暗号を解読され戦略を見破られて大敗したことで、米軍が日本本土に空襲をできる足場を与えてしまったことを学びました。敗色はこのときに見えかけていて、もしかしてもっと早く戦争が終わっていたら、大空襲も、広島・長崎の原爆も、沖縄戦で多くの命が失われることもなかったのかもしれないと……。歴史に「もし」はないとわかっているけれど、考えずにはいられません。

 決して、子どもたちを怖がらせたいわけではない。歴史や勉強の本を作りたいわけでもないです。やっぱり触れて描きたかったのはかつての「子ども」の心の部分です。

 この本はすべての漢字に読み仮名をふって、どのページからでも、興味を持った絵のところだけでも読めるようになっています。この本を作りはじめたとき、ロシアによるウクライナ侵攻はまだ始まっていませんでした。パレスチナもここまでひどい状況になるとは思っていませんでした。戦争は多くの子どもを傷つけます。侵略や争いを起こさない世界にするためにどうしたらいいのか。平和が失われるってどんなことなのか。「いのち」とか「平和」とかこの本にはそんな言葉ははっきり出てこないけど、すごく想像させてくれる本になっています。

 本を読む喜びって、想像力を持っていることじゃないでしょうか。平和であるために、何ができるのか。逆に平和でなくなるとどんなことになるのか。それを、大切な記憶をたくしてくださった17人の方々が教えてくれます。歴史じゃなく勉強じゃなく、今の「子ども」のみなさんが想像力を使いながら読んでもらえるといいなあ、と願っています。

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