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「たのしい保育園」書評 平凡な日々の、幸せと不安感と

評者: 石井美保 / 朝⽇新聞掲載:2025年08月09日
たのしい保育園 著者:滝口 悠生 出版社:河出書房新社 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784309039619
発売⽇: 2025/04/28
サイズ: 13.8×19.1cm/224p

「たのしい保育園」 [著]滝口悠生

 保育園が大好きだ。自分が通っていたわけではない。親になってからのことだ。あの園庭や靴箱を思い出すだけで切なくなる。本書を読むと、あの頃の感じが甦(よみがえ)る。
 園内に足を踏み入れると、ふだん使っていない感覚が目を覚ます。子どもたちの体温と匂い、肌触りと重みを受けとることで生まれてくる感情と想念。でも、日々成長しつづける子どもと相対しながら、瞬時に消えてゆくそんな感覚を言葉にすることは難しい。だからしばらく経つと、自分が何を感じていたのか、子はどんな風だったのか、すぐに忘れてしまう。
 ところが、ももちゃんのお父さんは、そんな風に過ぎ去っていく自分と娘のありようを逐一見つめ、省察し、書き綴(つづ)る。そこに立ち現れる子どもたちの無二のユニークさと、まさに!というほかない真理の数々。
 記録することは、逆説的に、膨大な忘却を際立たせる。こんなにも多くのことを忘れながら毎日を生きて、いつの間にか子は成長し、自分は年をとっている。でも、忘れてしまえる日々というのは幸福だ。無事だったからこそ、忘れることができる。ささやかな幸せを綴っていながら、本書の底に流れているのは、だから漠然とした不安感でもある。この日常が崩れ去ることへの不安。
 自分自身よりも大切な存在がいるからこその、それは不安であり、怖(おそ)れでもある。ももちゃんと原っぱに寝転ぶお父さんの目に映る、都心の空をよぎる飛行機や、感染症対策を呼びかける電光掲示板の存在が、日常の裂け目を暗示している。
 忘れてしまえる平凡な日々は、一人一人の親たちや、保育園の先生たちが、みんなで必死に守っているものだ。誰もが薄氷の上にいるとわかっている。でもだからこそ、踏ん張るのだ。子どもたちを真ん中にすれば、私たちはこんなにも強くなれる。勇気だって湧いてくる。ももちゃんの書いた「も」を胸に、空高く舞い上がる凧(たこ)のように。
    ◇
たきぐち・ゆうしょう 1982年生まれ。小説家。『死んでいない者』で芥川賞。『水平線』で織田作之助賞。