舞台「最後のドン・キホーテ」 作・演出のKERAさん、主演の大倉孝二さんが語る「なぜ人は狂気に惹かれるのか」
――セルバンテスの小説『ドン・キホーテ』をもとにした新たな冒険物語を書き下ろすそうですね。
ケラリーノ・サンドロヴィッチ(以下、KERA):原作は長大な作品で、全部をざっとは読んでいますが、作中内挿話というんでしょうか、喋っている「かぎかっこ」の中でまた別の話が入ってきて、それが何ページも続くところが多くて、とりとめのない話なんですよね。起承転結というものがない。こういう話は僕自身、結構好きなので、いかようにもできるなと思っています。
それをなぜ演劇にしようと思ったのかと聞かれますが、正直、それらしい理由はないんです(笑)。別役実さんが「風に吹かれてドンキホーテ」「にもかかわらずドン・キホーテ」という戯曲を書いていたり、映画監督のテリー・ギリアムは30年もかけて「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」という映画を発表したり、オーソン・ウェルズが映画を作ろうとして未完成に終わったりしています。そういう僕が尊敬する人たちがやろうとしていることに興味があるんですよ。
――その大作にご自身も挑戦してみたい、と。
KERA:そうかもしれない。そうそう、今回、ステージングを担当してくれる小野寺(修二)くんもカンパニーデラシネラで「ドン・キホーテ」をやっていますね。僕が興味のある人たちがみんな興味を示しているんです。
――なぜそれほどまでこの話に惹きつけられるのでしょうか?
KERA:“狂人”の話だからではないですかね。原作を何も知らない人は、ドン・キホーテという騎士がいると思うかもしれないですが、実際は騎士だと思い込んでいるだけの人の話ですから。すでにメタ構造で、もうすごく演劇的だと思います。
観客は、映画よりも演劇の方が「役者さんが演じている」という枠を意識して見るから、入れ子構造やメタ構造の物語は実に演劇向きなんです。外側の世界と内側の世界をどう描くか。その手つきがみんな違うので、それをどう自分なりにやるかということなんだろうと思っています。
――大倉さんは「ドン・キホーテ」に惹かれるものは何かありますか?
大倉:特に惹かれているわけではないんですが(笑)、子どもの頃から「おじいさんが太った男と風車に立ち向かっている」という挿絵のイメージはあって、その挿絵だけでも面白そうだと思いました。なんか面白くなるかもしれないという予感があったんです。
“狂気”の部分を読んでいても、今の僕は「迷惑だな......」ぐらいにしか思わない(笑)。当時の人はこの本を読みながら、ゲラゲラ笑っていたんですかね? 僕自身は“狂気”に惹かれることは若いときほどないかもしれないです。
KERA:まぁ、大倉は狂人の役を散々やっていますからね(笑)
大倉:そうですね。狂っているか、狂っていないかだったら、狂っている方をやりたいかも。実在すると迷惑だけど、フィクションの中で見たら笑えるから。
――なぜ狂ったものに惹かれるのでしょう?
KERA:やはり現実ではいろいろ思っていても実際にはできないからではないですか。トゥーマッチなことは現実の世界でやっちゃいけないこととされているし、最近は思うことすら抑圧されつつあるような気配がある。僕は思うことぐらい自由だろうと思うんですけど、その思ったことを形にしてくれる創作の世界というのは、痛快なんだと思うんです。その最たる領域が“狂気”なんじゃないかな。
いわゆる子ども向けのミュージカルなどでよく「ドン・キホーテ」を上演していますよね。あれはね、多分程よい感じなんだと思うんですよ。でも僕は普段から狂った世界をいっぱい書いてきたので、閾値(いきち)が違う。自分にとって満足できる閾値も、ナンセンスの閾値も、かなり高いところにあると自負しているので、逆に行きすぎないようにしなくては、と思っています。どういう話か分からなくなって、気がつくと「ドン・キホーテ」でも何でもなくなってしまう可能性があるから......(笑)
――長い演劇キャリアの中で、今回の公演はどんな意味合いを持つ公演となりそうですか?
KERA:ナイロン100℃の前身である劇団健康の旗揚げから40周年。終盤かどうかは分からないですが、間違いなく折り返しは過ぎているので、1本1本大切にやりたいと思っています。瞬発力とか集中力とか、あらゆる面でピークは過ぎているけれど、その分、この40年の間に培ってきたものはあると信じています。毎公演のことですが、1本の作品が作れることは、自分が思っている以上に貴重で大切な時間なんだろうなと思います。
大倉:公演が終わってしばらく経ってから「こういう意味があったな」と思うかもしれないですけど、今回に限らず「特別だ」と思って取り組むことはないです。僕がそんなことを毎公演考えながら取り組んでいたら……怖くないですか?(笑)
――タイトルの「最後の」というのはどういう意味なのでしょう?
KERA:最後の『ドン・キホーテ』のリメイクですよという意味です。絶対そんなはずないのに、そういう風に言ってのけるのが格好いいかなと思ったし、自分らしいかなと(笑)。
だって、聖書の次に読まれているらしいですよ、『ドン・キホーテ』って。スペインに行くと、ドライブインなど、あらゆるところに本が置いてあるし、みんな読んでいるらしいです。
――先ほど話されていた別役実さんの作品を模倣することは、今回はあまり目指していない。
KERA:そうですね。僕はかなり別役さんの影響下にあるので、自然とにじみ出てしまう部分が少なからずあると思いますが、意識的に模倣しているつもりはないです。
ナイロン100℃の何本かの作品は意識的に別役さんに近づいて、模倣(パスティーシュ)と言われようが、むしろ「別役さんのあの作品のあそこからインスパイアされてるのかな」と分かってもらえたら嬉しいと思って作りましたけど、今回はまず「ドン・キホーテ」があるので。
――大倉さんは今回、KERAさんが『ドン・キホーテ』に挑むことについてはどう思っていますか? 面白そうだなと?
大倉:もちろん、そうです。なるほど、興味がありそうだなとも思いました。ただ、僕も原作に目を通して、なかなかとらえどころのないものだったので、KERAさんはどこに興味を持ったのかなと。本のどこを抽出しようとしたり、膨らませようとしたりするのか、気になっています。
――KERAさんの描く「ドン・キホーテ」はどういう舞台になりそうですか?
KERA:久しぶりにいわゆるファンタジーのニュアンスが入ってくると思います。原作に沿ってひとつの芝居をやることもできなくはないでしょうが、作っている人間も観客も飽きてしまうと思うので、もうひとつ外側で、つまり、狂気に陥っていない人間たちがどう振る舞うかも描こうと思っています。狂気に陥らない側の人々の描き方が、自分にとっては鮮度が高くなる気がしています。難しいんですけどね。
40年近く前に「カラフルメリィでオハヨ」という芝居を書きました。それはホームドラマと爺さんの頭の中を行き来する話で、ホームドラマ側をコメディーとして描いていたんです。今回も構造は似ているんですけど、もっと荒涼としていていいのかもしれない。
僕はアメリカンニューシネマとか好きなんですよね。「スケアクロウ」とか「真夜中のカーボーイ」とか「タクシードライバー」とか、あのぐらい殺伐としてもいいのかもしれないなんて。
――お互いの俳優として、劇作家・演出家としての魅力をあらためて教えてください。
KERA:魅力かぁ。総体としての大倉の面白さはあると思うし、知っていると思うんですけど、あらためて考えたことがないかもしれません。ただ、これは大倉に限らないけど、昔から一緒にやっている劇団員は、ナンセンス的なことをやるときにすっとわかり合えて、共有するものが多いと思いますね。
大倉が入ったばかりの頃はクセが強すぎて……でもそのクセもいい感じに抜けてきて、いろいろできるようになりましたよね。重宝させてもらっています(笑)
大倉:単純にすごいと思うのは、その作品数です。毎年作品を生み出すし、世界観も多岐に渡っています。特に自分が出演しておらず、観客として観ているときに感じるんですが、本当にそういう世界があるような気持ちにさせられる精度で作られていますよね。
――好書好日は本のウェブメディアなのですが、お二人は普段どんな本を読まれますか?
大倉:僕はそんなに読書家ではないのでね。音楽が好きなので、読むとしたら、音楽関連の本とか、小説をちょこちょこ読んだりしています。
KERA:自分が映像に出ている原作は読む?
大倉:読んだり読まなかったりですね。……僕は圧倒的なパワーを持ってそうなものとかあまり選ばない。「感動させてやるぜ! 感情を揺さぶってやるぜ!」と息巻かず、逆に「きっとそういうことをしてこないだろうな」という感じの匂いのする小説を選びます。
KERA:帯に感嘆符がついている本は避けるということね(笑)
――KERAさんはご自身の戯曲集もありますが、戯曲の面白さや読み方をお聞きしたいです。
KERA:戯曲はもっと読んでもらえるといいかなと思いますけど、あまりにも戯曲って読まれないですよね。分かるんですけど(笑)
大倉:確かに、戯曲を好きで読んでいる人はいないかも(笑)
KERA:芝居を見て、作品が好きになって、劇場のロビーで買ったはいいけど、読まなかったりするよね。
舞台を観た方にとって、活字で読むことによって補完されるものはたくさんあると思うし、全然印象が違うこともあると思います。例えば、アーサー・ミラーとかユージン・オニールとか、舞台でいきなり観るより、本で読んでから観た方がちゃんと入ってくると思いますよ。
大倉:戯曲に関して言えば、KERAさんの戯曲って、読んだときの面白さを再現できないときがあるんですよ。逆に、文字だけで面白いことが多々あるんですね。僕ら俳優はフィジカルな仕事なので、文字だけで人を面白がらせることができるなんて、純粋にすごいなと思う。
KERA:文字って必要以上に情報がないからね。文字だけだと得体の知れない面白さがあるんですよ。別役さんの作品も、人が言うより、文字でしれっと書いてあることがすでに面白い。
大倉:そういう意味では、小説家さんもすごいですよね。「映像化を!」とすぐに言う人がいますけど、僕はあまり思わない。小説そのものに圧倒的な感情がありますから。文字を操る人たちのすごさをいつも感じます。
――KAAT神奈川芸術劇場での公演を皮切りに、全国を巡回します。
大倉:当然、面白くする気でいますし、なんとなく面白くなりそうな要素が多いんですよね。KERAさんが描く世界観に、役者の演技はもちろん、生演奏や小野寺さんのステージングといった視覚的にも聴覚的にも楽しめる効果がプラスされて、きっと飽きないものになるんじゃないかと思っています。
KERA:僕の中でKAATって、ちょっと違うんですよ。ホームグラウンドと言える本多劇場や、ケムリ研究室をやらせていただいている世田谷パブリックシアターとも違って、公共の劇場だけれど、アート寄りの作品を歓迎している劇場に思えるんです。
前芸術監督である白井(晃)さんや、今の芸術監督の(長塚)圭史がそういう思考を持っているからかもしれないんですけど、「分かりやすくしなくては」という義務感を持たずにできるんですよ。僕の資質として、程よくアバンギャルドなものになればいいかな。
「少し複雑だな」「難しいな」と思うかもしれないですが、でも、いろいろな「面白い」があるから。その裾野を広げる作品になるといいなと思います。