亡くなる直前のインタビュー取材に立ち会った賢作さんは、「いまいちばん興味があることは」と尋ねられすかさず「死ぬこと」と答えた父を「ユーモアのあった人」と振り返る。
「怒られたことはない。身内びいきの応援団長でした。知り合いの映画監督などに『いい曲を書くから使ってやって』と売り込んでくれた」。父と息子は音楽ユニット「DiVa」の仲間でもあった。「同志がいなくなった感覚でもあります」
志野さんが15歳で米国留学を決めたときも「いいんじゃない」と背中を押してくれたという。「その頃、うちには祖父母と祖母の姉がいた。両親は、このままではその世話を娘に頼ってしまうと将来を案じてくれていたのだと、成人してから知りました」
志野さんの娘があかちゃんだったとき、孫ができた俊太郎さんは興味津々だった。「おもしろい生き物がいるというふうな目を感じた。愛情がなかったわけではないけれど」
壮年期の俊太郎さんの創作風景を、2人は直接目にしたことはない。仕事場に入ることは母に禁じられ、「ご飯だよ」と呼びに行くのが常だった。最晩年の俊太郎さんが、居間のラップトップのパソコンを前にぼうぜんとしている姿が賢作さんの印象に残っている。「もう十分生きたという感じが漂っていた」
晩年のインタビューで俊太郎さんは、「僕は、自由に解釈してもらうことに嫌な気持ちは全然ないですね/今まで自分が考えていたものとは違う何かを/発見してもらえたらうれしいっていう感じだね」「どう解釈してもらってもいいんです」と語っている。
その言葉を収めたインタビュー集「行先は未定です」(朝日新聞出版)の編集を手伝いながら、賢作さんが残念に思ったことがある。「父は、自分が望むように自由に解釈してもらったことがないのではないか。『この作品に込めたメッセージは?』と生真面目に問われると丁寧に受け答えはしていたけれど」
志野さんも「学校教育では『解釈』を採点されたり、『正しい答え』を探させたりするところがあるけれど、父としては、自分の好きな詩を探してくれれば、それでいいんじゃないでしょうか」。
俊太郎さんの最晩年の作品「感謝」は、「目が覚める/庭の紅葉が見える」で始まる。志野さんは英訳にあたって「こうよう」と読んだが、「『もみじ』でも『こうよう』でも、読む人が決めていいし、どう解釈してもいいと思う。それを作者本人もおもしろがっていると思います」。(藤崎昭子)=朝日新聞2025年8月20日掲載