太宰治賞・栗原知子さん 「自分にしかできないこと、なんてない」50歳母、使命感を脱いで書いた小説 (第28回)
栗原さんは、この連載初の「お母さん」受賞者だ。アルバイトをしながら、中学生と高校生の子ども2人と暮らす(夫は単身赴任中)。どうしたってそこに注目してしまうのは、私が2児の母で、かつて「子どもを産んだ人は、いい小説が書けない」と言われたことがあるから。連載28回目にしてようやく、「子どもを産んだ人で、いい小説を書いた人」に出会えた。
本に囲まれた家で育った栗原さん、中学時代から萩原朔太郎を愛読し、大学は日本文学を専攻。詩を書き、文芸誌やコンクールに応募していたそう。在学中に、世田谷文学賞で二席をとった。
「私は自分1人のためにケーキを焼けないタイプ。誰かが読んでくれると思わないと書けない。書くことと投稿や応募をすることはいつもセットでした。卒業後も、公務員の仕事とのバランスをとるように詩を書いては投稿。2001年、26歳で〈ユリイカの新人〉(詩誌『ユリイカ』の年間最優秀投稿者)に選ばれ、翌年、はじめての詩集『シューティング・ゲーム』(思潮社)を出しました」
『シューティング・ゲーム』の巻頭には谷川俊太郎さんが「この今」という詩を寄せた。結婚して退職したあとも専門誌に詩を発表し、2012年、2冊目の詩集『ねこじゃらしたち』(思潮社)を出版。翌年には千葉市芸術文化新人賞を受賞した。
「けれど、その後しばらく書けなくなってしまったんです。書こうという気持ちになれなくて……」
2019年、パンデミックになる少し前、作曲家の田中達也さんから『シューティング・ゲーム』の中の数篇を合唱曲にしたいという依頼が来る。谷川俊太郎さんの詩集に「この今」が転載され、そこから『シューティング・ゲーム』にたどり着いたそう。
「2021年、完成した合唱曲をみなさんが歌っているのを見て、自分の書いたものが長い年月をかけて新しい形になり、再び現れたことに感激しました。その時に、もう一度書きたい、今度は小説を書きたい、と思ったんです」
なぜ小説だったのだろう。
「長い間に東日本大震災も子育てもあり、ものの見方が変わったのだと思います。これは人によると思うのですが、詩を書くとき、私はわりと自分の内面のことだけを書いていたんですね。でも、自分のことじゃなくてもっと俯瞰した〈人間〉というものがどう動くのかということに興味が出てきました。なにかフィールドを設定し、そのうえで人が動くみたいなことをやりたい、と。昔、ピタゴラ装置みたいな詩を書けないかなと考えたことがあったのですが、今思うとそれって小説ですよね」
それからバイトが休みの日に小説を書き、応募するようになった。中でも1次審査から名前を発表してもらえる北日本文学賞と最終候補作が読める太宰治賞には必ず応募していたそう。
「最初は自分はすごいことをやってる!と思っていましたが、結果にはつながりませんでした。一昨年だったか、私が北日本文学賞の2次に残っているのを見つけた昔のバイト友だちが『もしかしてあれは栗原さんですか? 私も小説を書いてます』と連絡をくれ、それから2人で書いたものを見せ合い、感想を送り合うようになりました。それがすごく役立ちました。自分が書いているつもりで書き足りていないところを教えてくれたり……、やっぱり客観的に読んでもらうって大切だと思います。おかげで昨年、いつも2次選考で落ちていた北日本文学賞が4次まで行けて、そしてこの太宰治賞ではじめて最終選考に残ることができたんです」
最終選考の連絡を受けたときの気持ちは。
「メールで連絡をいただいたのですが、ちょっと理解が追い付かなくて、最初、太宰治のなりすましからスパムメールが来たのかなと思っちゃいました。件名もメール本文もちゃんとしていたのですが、頭が混乱しすぎて」
受賞連絡のときはいかがでしたか。
「嬉しさよりも、これでもう太宰治賞に応募できないんだ、という思いが先にきました。もうちょっと書けるようになってからのほうがいいんじゃないかと思ったんです。あまりに不安で、受賞作が大不評でAmazonレビューに謝罪文を書きこむという夢まで見ました(笑)。選評を読んでようやく少し落ち着きました」
ご家族の反応は。
「うちの家族は淡々とした人たちなので『へぇ、すごいね』という程度。夫にはLINEで知らせて、『大したもんだ』と言われました。高校生の娘に受賞作を読んでもらいましたが、彼女の評が誰よりも厳しかったです。『こんな中学生いない』って(笑)。じつはそれまでは小説をもっとこそこそ書いていたんです。小説書いてる暇があったら夕ご飯のおかずをもう一品増やした方がいいかなって罪悪感があって……。賞を頂けたので、これからは少し胸を張って小説に取り組めそうです」
受賞作「フェイスウォッシュ・ネクロマンシー」の着想はどこから。
「まさに小説に書いたとおりなんですが、化粧品店で店員さんに声をかけられて、手の甲でクレンジングのお試しを受けてみたら、本当に手が白くなって。白い手をしていた祖母のことを思い出したんです。その帰り道に、おばあちゃんの霊を呼び出す話はどうかと考え始めて。亡くなった祖母に頼りたいほどの辛い状況を作ろうと、家に同性の身内がいない設定にしたり、息子が不登校になって、しかも唸っていることにしたり……そこからどんどん広がっていきました」
これまで落選した作品とのちがいは。
「ひとつは時間をかけたこと。じつは、『フェイスウォッシュ~』は一度べつの賞に出して落選したものを大改稿して応募したんです。友だちに『海の場面の描写をもっと増やしたら』、『詩のフィールドで培ったものをもっと使ったら』などアドバイスをもらってじっくり書き直しました。書き上げたときは気づかなかった説明不足な部分や、冗長な部分も、時間を置くことで冷静に『ここ、いらなかったな』『なんかダサいな』って気づくこともできました。
もうひとつは、小説を書く動機。いつもは小説の技術をあげるためのトレーニングとして臨んでいましたが、今回は『おばあちゃんのことを書きたいな』という気持ちから始まった。『フェイスウォッシュ~』に出てくる人物はみんな架空のキャラクターですが、唯一おばあちゃんだけは、私の亡くなった祖母がモデルなんです」
栗原さんにとって、おばあさんはどんな存在だったんですか。
「言葉数が少なく、自分のことはあまり語らない人だったのですが、私をまるごと肯定してくれる人でした。ずっと同居していたので大きな存在です。小説の中で祖母を肯定し、恩返しできたらいいなと思いました」
詩を書くことと小説を書くこと、どんな違いがありますか。
「全然違うことのように思います。詩はやっぱり音も大事ですし、言葉と言葉の間に浮かんでくるものを書こうとしているところがあるけれど、小説でそれをやったら、飛躍しすぎというか、サボってる感じになっちゃう。小説は常識を使って書くものだと思うんです。常識のない人を書くにしても、常識を踏まえないと書けない。私は常識が足りない人間なので、説明が抜けていないか常に気にしながら書いています。簡単に言うと、詩は校正で朱が入ることはあまりないけれど、小説はある。これは大きな違いですよね」
今後はどう小説と向き合っていきますか。
「授賞式で選考委員の方々にお会いして、プロの作家になることの大変さに初めて気づきました。みなさん、誰も書いていないものを書くとか、以前の自分が書いたものよりさらにいいものを書くということを何年も何作品も続けていらっしゃるわけですよね。そこまでの覚悟はもてない。ただ、技術的に自分の満足がいくまでは、頼まれなくても小説を書き続けると思います」
本を出したいとか、小説家になりたいという野心は。
「若い時は、自分にしかできないことがある、と使命感のようなものを持っていたんです。でも、津村記久子さんの『台所の停戦』という短編を読んだときに、こういうすばらしいものを書く人がすでにいるんなら、私なんかぜんぜん書かなくていいや、って成仏した気持ちになって。ただ自分がうまくなりたいから書く、という考えに切り替わりました」
ここまでの話で気になることがあった。2冊目の詩集を出したあと、書くことから離れた時期。それはちょうどお子さんがまだ小さい、手のかかる時期と重なる。
やっぱり子育てと創作の両立は難しかったということでしょうか。
「いえ、書くことから離れた理由は全くべつの健康上の問題だったんです。たしかに子どもが小さい時分は、これっていつ終わるんだ……と思うような自由のない時間が続きましたから、なにかを集中して書くというのは難しかったかもしれません。けれど、子育てのせいで詩への創作意欲がなくなる、ということではなかった。
以前から清さんのエッセイを拝読していて、『子どもを産んだ人はいい小説が書けない』と言われた話も読みました。子どもを産んだ人は虫歯が多いとか、子どもを産んだ人は長寿の傾向がある、とかだったらわかるんです。でも創作には関係ないんじゃ……と私は思っています」
では、子どもの存在が創作に活きることもありますか。
「あります。自分の関心事が子どもの人数ぶん増えました。上の子は本は図鑑しか興味のない子で、一緒に科学館へ行ったりして、めちゃめちゃ影響を受けました。そして下の子は私と似ています。
小説を書いて応募しようという勇気も、今思えば子どもたちがくれたもののような気がします。私、ネットを異常に怖がっていたんです。インターネットがない時代から書いてきたもので、自分や子どもたちの身を守ろうと発信しなくなったというのもありました。でも、子どもたちが大きくなって自分でネットを駆使するようになったら、『お母さん、炎上怖がりすぎ』って、あの子たちは全然ネット社会に怯えていなかったんです。それに、2020年にパンデミックが起きて、人っていつか死ぬんだなって思ったら、細かいことを気にしててもしょうがないかって思えた。なにかを書き、それを人に読まれたいと、また願うことができたんです」
とてもうれしい答えだった。今後は詩もまた書くのか尋ねると、「今、とても書きたくなってます」とのこと。
子どもを産んだ人、ではなく、50年の時を自分なりに歩いたその人は、いい小説を書き、受賞をし、そしてただワクワクと、自分がこれから書いていくものを楽しみにしていた。