「南洋標本館」 統治下の苦闘と、探究への情熱 朝日新聞書評から
ISBN: 9784152104410
発売⽇: 2025/07/16
サイズ: 13.1×18.8cm/536p
「南洋標本館」 [著]葉山博子
日本統治下の台湾に生まれた「内地人」の生田琴司と、「本島人」の陳永豊(タン・イェンホン)。二人の人生を主軸に、戦前から日本の敗戦に至る激動の時代を、台湾と日本、ジャワを舞台に描きだす壮大な物語だ。
総督府官吏を父にもつ琴司は、台北の内地人社会で成長した。一方、幼少期に実父を亡くした陳は、奇妙な縁で台湾人富豪の養子になる。二人の少年の仲をつないだのは、植物への関心と探検への憧れだった。
やがて成長した琴司は植物学者を志し、台北帝大に進む。かたや、東京帝大に進学するも、養父の死とともに家財の一切を失った陳は、台北で末端の研究職に就く。
ときに交わり、また離れる二人の軌跡を通して描かれるのは、本島人の犠牲の上に築かれた内地人の特権性だ。地味ながらも順調に研究の道を歩む琴司に対して、その優秀さにも拘(かかわ)らず、「二等公民」とされる本島人の陳には出世の道は閉ざされている。
そんな陳にとっての活路を拓(ひら)いたのは、皮肉にも、大日本帝国による新たな植民地の獲得だった。陸軍嘱託の技師としてジャワの植物園に赴任した陳は、永山豊吉という日本名に改名し、支配者としての自己を演じようとする。
二人の青年の苦楽を通して、植民地支配の光と影が浮かびあがる。同時に本書が照らしだすのは、時代に押し流される植物学者たちの苦闘のさまだ。琴司たちの研究する植物地理学は、戦時下では無益とされ、新発見の喜びにあふれた南洋探検の成果すら、帝国の手中に握られる。
だが彼らは、たとえ妥協を強いられても、植物分布の謎を解明せんとする情熱を手放さない。人間の欲得や争いを超越した植物界の探究への執念が、敵と味方に分断された研究者たちを結びつけ、人間性への信頼をつなぎとめる。
そして迎えた日本の敗戦。全ての帰属を一瞬にして失った陳は、こう呟(つぶや)く。「ぼくは今何者でもなくなったんだ、失ったんだ、何もかも」。その陳に、琴司は言う――「植物学者だったきみは、誰の借り物でもない、きみ自身だったじゃないか」と。
歴史のうねりの中で浮沈する人間たちと、海を越えて繁茂し、生態系を創りあげていく植物たち。微小なものと壮大なものの間を往(い)き来しながら進むドラマに魅入られるうち、読み手は歴史を、人間性を、そして人間が何にその生を負っているのかを問い直さずにはおれない。そして本書を閉じたとき、自分の内に確かに宿っているものは、ただ一個の人間として、人間を超えた世界をはるかに展望しようとするまなざしである。
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はやま・ひろこ 1988年生まれ。作家。2023年に『時の睡蓮(すいれん)を摘みに』で第13回アガサ・クリスティー賞大賞を受賞してデビュー。本書が2作目。