歴史といまをつなぐ なぜ文献を読み、話を聞くか 松沢裕作
「現在を知るためには歴史を学ぶ必要がある」とはしばしば耳にするせりふである。しかし、過去の出来事と、私たちが生きている現在とはどのようにつながっているのだろうか。
そもそも、私たちは過去のことを、ある程度理解できてしまう。それはなぜなのだろう。戦後の日本中世史研究を長くリードした佐藤進一の『新版 古文書学入門』(法政大学出版局・3630円)は、その問いに答える手がかりを与えてくれる。「古文書」という言葉はさまざまな意味で使われるが、ここでの「古文書」は、日本史の専門家が使う狭い意味での「古文書」を指しており、佐藤によれば、ある人物あるいは組織から別の人物や組織へ、「意思表示」をしている文献のことである。たとえば、「命令書」とか、「請願書」といった書類は、それぞれ「命令」や「請願」といった作成者の意思を表示している。それは現代の私たちに宛てられているのではなく、主人からその命令をうけとる家来とか、請願の相手になっている君主に宛てられているのだけれど、その時代の語彙(ごい)と文法を理解できれば、古文書は意思の表示手段なのだから、現代のわれわれもその意思をうけとることができる。史料は何かを伝えたがっているから、私たちはそれを理解できるのである。
一方、現代に生きる私たちは、史料作成者が伝えたいことの本来の受け取り手ではない。しかし、歴史家が関係当事者から聞き取りをするとき、語り手は、歴史家に向かって言葉を発している。つまり、いわゆるオーラルヒストリーでは、歴史家は語り手の言葉の本来の受け取り手である。聞き取りが信頼できるか信頼できないかという以前に、これはオーラルヒストリーの特徴である。社会学者・朴沙羅(ぱくさら)の『記憶を語る、歴史を書く オーラルヒストリーと社会調査』(有斐閣・2530円)は、オーラルヒストリーをめぐって積み重ねられてきた議論や、著者自らの聞き取り経験を振り返りながら、「歴史は、歴史を探究する営為のなかにある」と述べる。調査者は何か知りたいことがあるから語り手のところへおもむき、それを語ってほしいと望む。この事情は程度の差こそあれ、文献史学にも当てはまる。歴史家は、なぜよりによって、この人の話を聞き、この文献を読んでいるのか。その時点で歴史家は証言者や文献が語りたいことに巻き込まれており、歴史の一部になっているのだ。
社会史研究に大きな影響を残したイギリスの歴史家、E・P・トムスンの『ウィリアム・モリス ロマン派から革命家へ』(川端康雄監訳、月曜社・7480円)は、歴史家が歴史のなかにいることを雄弁に語る著作だ。モリスは、中世文化を愛する中世主義者であると同時に、資本主義社会の不正と悲惨の変革を志向するマルクス主義者でもあった。モリスにとって中世とは、現実の社会とは異なる社会がありうることを示すもの、あるいはそれとの対比によって現状の不正と悲惨とに自覚的になるための回路であった。1955年に初版が出版されたこの本のなかで、トムスンは、中世主義的芸術家モリスが、マルクス主義運動家モリスであることは両立するばかりか、モリスの思想に即せばその道行きは当然だったことを示す。
自身もマルクス主義者であり、反核活動家だったトムスンは、モリスの思想と行動を想起することによって、自らをモリスの系譜のなかに置こうとしている。それはソ連型社会主義を含む同時代の社会主義運動への異議申し立てでもあったはずだ。中世からモリスへ、モリスからトムスンへ。今年刊行された邦訳書を手にする私たちは、その歴史を受け取っているのだ。=朝日新聞2025年10月18日掲載