サイトウマド「怪獣を解剖する」 生々しく刺さる問題意識(第5回)
突然ですが、死ぬのが怖いんです。
何が怖いかと言うと、死に至るまでの間に予想される肉体的精神的な苦痛もさることながら、こうして文章を考えている「自己」の喪失がたまらなく恐ろしい。我思う故に我あり、ならば、思わなくなった「我」はどうなるんだろう? その疑問を、物心ついた時からレンチンを繰り返すように温め直しては新鮮に怯えている。
ぶつりと意識が断たれ、無になるのが怖い。
意識だけになって「あの世」で過ごすとか、生まれ変わってイチからやり直すとかはだるい。
すでにだいぶガタがきたこの肉体で生き続けるのはしんどい。
詰んでいる。
「子どもが生まれてからは死に対する恐怖が失くなった」と言う知人がいた。「バトンを渡した」とごく自然に感じたらしい。わたしには一生わからない感覚だ。自分の死後も著作は残る(かもしれない)ということは、特に救いにならない。むしろ恥ずかしい。
生も死も怖い、と思いながら、きょうもわたしは生きている。あすのことはわからない。
サイトウマドの『怪獣を解剖する』(上・下、KADOKAWA)を読んだら、ほんの少し、恐怖のエッジが取れてやわらかになる気がした。
舞台は20XX年の日本。東京に甚大な被害を与えた超大型怪獣「トウキョウ」の死骸が、瀬戸内海に浮かぶ大豆島(おおどしま)に漂着する。
その解剖に挑むのは若き怪獣学者の本多昭。11年前、「トウキョウ」の脅威を目の当たりにした被災者でもある。トラウマを抱えつつ、生物としての怪獣への探究心と好奇心をも持ち合わせた彼女は、「未知を既知に変えることが防災に繋がる」と信じている。
一方で現場の特別作業員として働く樋口修介は、「今ここにある危機」として怪獣の処分を主張する。「トウキョウ」には有害な寄生虫が棲みつき、二次怪獣の生成という危険も孕んでいる。何より「トウキョウ」が本当に死んでいるのかも不明で、再び大災害を引き起こす恐れもあるから。
怪獣を知ろうとする昭も、排除しようとする修介も、根っこの思いは変わらない。命を繋ぎたい。人間という種が生き延びるために最善を尽くしたい。「今」がなければ「未来」もない。でも、「今」は「未来」を前提にしている。
ふたりの矜持に加え、環境汚染、処分場となった土地で生きる住民の葛藤、被災地の外にいる人間の鈍感さ。さまざまな切り口が、怪獣なき世界に生きるわたしたちにも生々しく刺さる。
だってもう、知っているから。突然、家や街や家族が呑み込まれてしまったあの日を。ゴールの見えない原発事故の後処理を。故郷を捨てざるを得ない痛みを。怪獣という一見非現実的な突飛な設定のディテールを丁寧に紡ぐことによって、ひとつひとつのエピソードや台詞の臨場感が際立ち、何度も手を止めて考え込んだ。
「私を作ったもの・体で起きていることは 今見えているこの輝きと同じ化学反応で」
「私は私という現象なのだと」
著者は、宮沢賢治の詩が好きなのかもしれない。わたしもだ。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)
(「春と修羅」より)
電燈が失われても、光は残る。その光を、未来の誰かが新しい電燈に据えてくれることを信じて託す。人間の生き死にと営みへの実直な眼差しもまた、かけがえのないひとつの光で、わたしの恐怖をそっと照らしてくれた。
本作のプロトタイプとも言える読み切りが収録された『解剖、幽霊、密室』(KADOKAWA)もおすすめ。生きているうちに、ひとつでも多くの新作を読みたいと思わせてくれる作家のひとりだ。