数十年ぶりにハックと再会し、え、こんな少年だったっけ、とびっくり仰天した。
若い頃、本好きの仲間とよく「やっぱり、トム・ソーヤよりもハックルベリ・フィンだよね」などとツウぶった話をしたものだった。壮大な旅をした後者こそが真なる冒険者だ、と。が、改めて『ハックルベリ・フィンの冒険』を読み返すに、彼の旅はけっしてたんなるアドベンチャーではなく、むしろ胸の痛むような受難の連続である。
そもそも、父親による拘束や虐待から逃れるため、という動機からして痛ましい。出奔後、ハックは逃亡奴隷のジムと合流し、二人は共に筏(いかだ)でミシシッピ河を下っていくのだが、行く先々でこれでもか、と災難に見舞われる。難破船へ立ち入れば極悪な強盗団とニアミスするわ、カヌーに乗れば急流に流されるわ、陸へ上がれば不倶戴天(ふぐたいてん)の敵である家同士の殺し合いを目撃するわ、えげつないペテン師に利用されるわ、それはもう踏んだり蹴ったりなのである。
時代の空気も荒っぽい。19世紀中期の米南部で、人々は神をあがめて祟(たた)りを恐れ、豪快に酒を飲み、あちこちで銃をぶっ放し、白人は黒人を支配し、時に集団リンチの暴挙に出る。ハックの旅は、信仰と暴力が背中合わせだった時代の記録でもある。
では、なぜこの小説はこんなにも面白いのか。ひと言で言ってしまえば、それは作者マーク・トウェインが、ユーモアたっぷりの筆致で面白く書いたからだろう。どんな悪党にも一縷(いちる)の可笑(おか)しみや愛嬌(あいきょう)を与えてしまう筆力は、まさに神業級である。さらに、何があっても自分を失わないハックのタフな精神(逃亡奴隷の擁護を罪とする社会通念と友情の板挟みになった彼が腹をくくる場面はとりわけ圧巻だ)もまた、この試練に満ちた物語に救いを与えている。結果、読み手の中に残る読後感は奇跡的に明るい。
ユーモアとは、汲々(きゅうきゅう)とした人間社会をほぐす一種の魔術なのかもしれない。はたして今の米国をハックが旅したら、彼は何を見つめ、それをどう語るのだろうか。(作家)
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複数の版元から翻訳が出ているが、今回取り上げたのは、大久保博訳の角川文庫版(1100円)。トウェイン(1835~1910)は米国の作家。原書は『トム・ソーヤーの冒険』の続編として1885年に刊行。=朝日新聞2025年12月6日掲載