ISBN: 9784120059605
発売⽇: 2025/10/21
サイズ: 2.5×19.1cm/520p
「研修生(プラクティカンティン)」 [著]多和田葉子
川は流れ、人は旅し、本は流通する。全篇(ぜんぺん)、移動のイメージに満ち満ちた小説だ。
一九八二年の初夏。日本の大学を卒業したばかりの「わたし」は、書籍取次会社の研修生としてハンブルクにやってくる。新しい土地と言語、ユニークな同僚たち。酒と煙草(たばこ)と恋。新鮮な出来事につぎつぎと遭遇する「わたし」の日常が、テンポよく展開していく。
新天地で「わたし」の感じる不安や焦燥、好奇心や欲望には覚えがある。同じ年頃に、アフリカでフィールドワークをしていた頃のことが甦(よみがえ)る。ただし、本書の舞台は冷戦下のヨーロッパだ。分厚い壁はドイツを東西に隔て、世界を分断している。ドイツに暮らす日本人の「わたし」もまた、「『顔』という壁」を境にして、自己の内と外に分裂を感じる。
でも、分裂は生成の契機でもある。自分の内と外がせめぎ合う、その境界から新たな感覚が萌(きざ)してくる。「わたし」が日記に綴(つづ)る日本語のリズムと感性、「わたし」の話すドイツ語の直截(ちょくせつ)さとおかしみ。帰属も言葉も他者との交流も不安定で、不完全であるからこそ、型にはまらない魅力的な言語が溢(あふ)れてくる。
本書の中で、冷戦という時代状況は背景化しているけれど、戦争と虐殺の記憶、そして壁の存在が、「わたし」の歩く街路や出会う人びとに陰影を与えている。壁が壊され、マルクがユーロになり、再び戦争が起こり……。絶えず移り変わる世界の中で、「わたし」は変わらず街を歩き、旅に出、他者と出会い、小説を書き続けてきた。終着駅のない旅の、「わたし」は今も途上にある。
本書を流れるもうひとつの要素、それは時間だ。時も川も、流れ続ける。親しい人たちが去ってしまった後も。彼らに捧げる、本書は湿っぽくない挽歌(ばんか)のようでもあるし、過去から未来に届いた手紙のようでもある。新しい言葉の流れる川を、「わたし」は冒険者のままで漕(こ)ぎ続ける。
◇
たわだ・ようこ 1960年生まれ。小説家・詩人。『犬婿入り』で芥川賞。『献灯使』英訳版で全米図書賞翻訳文学部門受賞。