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「大江戸怪談事情」書評 リアルな社会情勢を映す文化論

評者: 横尾忠則 / 朝⽇新聞掲載:2026年02月07日
大江戸怪談事情: 『耳嚢』の怪異をひもとく (歴史文化ライブラリー) 著者:堤 邦彦 出版社:吉川弘文館 ジャンル:文学・評論

ISBN: 9784642306270
発売⽇: 2025/12/23
サイズ: 12.9×18.8cm/256p

「大江戸怪談事情」 [著]堤邦彦

 「死んだら無」という知性と感性の世界しか認めようとしない人に対して、もうひとつの霊性的世界こそが実在性を持つという世界観を感じさせる江戸時代の『耳嚢(みみぶくろ)』という書物の怪異談が、あなたの知性を忽(ゆるが)せることになるでしょう。
 その前に地獄を結論づけましょう。死んでからも離れられない夫婦は現世の希望的観想を裏切って、夫婦和合こそが地獄への道と知ったら、あなたはどうしますか?
 つまり、こういうことです。執着の度合いによって残した想(おも)いが形象されたのが幽霊です。本書に登場する『耳嚢』には、このような様々な煩悩がこの世に怪異現象を起こすことが記されています。
 そこで本書ですが、単なる面白半分のお化け話ではなく、怪談が語る場や時代背景にまで踏み込んだ文化論でもあるのです。
 『耳嚢』は江戸時代の超エリートが記した怪談のコレクション集です。次々と起こる怪奇、怪談、怪異現象の実録を、単なる今日的な都市伝説としてではなく、武士階級の知性と教養の一環として怪談の裏にある「江戸のリアル」な社会情勢までドキュメントしているのです。
 現代人なら馬鹿にする狐(きつね)や狸(たぬき)に化かされた話(僕の子供時代に知人が体験した)や、怪異現象がお家騒動や家系の断絶まで引き起こしたといったら、今の人は誰が信じますか。このような話は何も江戸の創作されたファンタジーではなく、実際にあった社会的現実なのです。
 江戸の人々にとって怪異は日常の延長線上にありました。ある意味でこんな豊かさが現代の生活から完全に消えたのは、自然破壊により都市化されたためでも、現代人の想像力が低下したためでもなく、知の支配が本来の人間性と霊性を喪失させ、内なる純粋、無垢(むく)、素朴さを失った結果、怪異現象を体感する能力を自ら追放してしまっただけの話。
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つつみ・くにひこ 1953年生まれ。京都精華大名誉教授。著書に『江戸の怪異譚(たん)』『女霊の江戸怪談史』など。