老人や子どもは社会のお荷物?「なめんなよ」
――主人公・蒼のおばあちゃんは「拝み屋」を生業とし、町の人から「カミサマ」と呼ばれ慕われています。五十嵐さんのエッセイによると、ご自身のおばあさんは宗教にハマって逆に〈拝む側〉だったそうですね。
僕の祖母は、娘、つまり僕の母の耳が生まれつき聴こえなかったことから宗教にのめり込みました。もともと僕は優しく明るい祖母のことが好きで、大のおばあちゃんっ子だったんです。でも、何を相談しても「お祈りが足りなかったせい」と言って、現実から目を背ける姿にどんどん心の距離ができてしまって。わかり合えないまま死に別れたことに後悔がありました。
〈おばあちゃんと小学生のバディもの〉というのは編集者さんとの話し合いで出てきたアイディアだったのですが、書きながら、蒼とおばあちゃんが打ち解けていく姿をうらやましいなあ、と思っている自分がいました。自分には叶えられなかった関係性を、蒼とおばあちゃんのふたりに託しながら書いていたんだと思います。
――本作の「拝み屋」のおばあちゃんは、じつは神通力は見せかけで、持ち前の観察眼と推理力で悩みのもとを見抜いているだけ、しかもそれで大金をせしめることもある、ダークヒーローとして描かれます。
地方の単身高齢者であるおばあちゃんも、ひとり親家庭でその親に捨てられた蒼も、自分では選べないことで苦境に立たされた、いわゆる社会的弱者と見なされることもある存在です。でも、そんなふたりを「可哀想な状況でも健気に生きている存在」にはしたくなかった。おっしゃる通り、おばあちゃんは清濁併せ持つダークヒーローみたいな立ち位置ですが、そんなおばあちゃんの強かな生き方を目の当たりにして、蒼も逞しく成長していく。蒼とおばあちゃんの姿には、「弱者だと思って、なめんなよ」という思いを込めています。
家族に障害者がいること
――第一話「消えた三味線と僕」では、障害者の血縁がいる家族の悩みが描かれます。耳の聴こえない両親を持つコーダである五十嵐さんが込めた思いとは。
「差別をなくしたい」という思いから、これまでエッセイで何度も、家族に障害者がいることで起きる困難を描いてきました。でも、どんなに頑張って伝えても、差別の問題を自分事として捉えられない人たちもいます。だからこそ、僕は小説の力を借りたいと思っていて。小説って、登場人物に感情移入しながら読むことができるじゃないですか。たとえば、差別されている登場人物がいたとして、読者はその痛みを自分のものとして感じるようになる。その結果、そこで描かれた問題がより身近なものとなり、真摯に向き合うきっかけにもなると思うんです。だからこれからも、小説のなかでそういった「痛み」を書き続けたいと思っています。
――今作は5話からなる連作短編集ですが、蒼とおばあちゃんが関わるどの事件も、家族間のすれちがいやいざこざを描いています。
意識してこうなったわけではなく、書き上げてみたら家族が軸になっていました。耳の聴こえない両親、宗教に熱心な祖母、元ヤクザの祖父とそれなりにややこしさのある家族と暮らしていたので、子どもの頃から家族について悩み、考える瞬間が多かった。そうやって思案してきたことが、今回の小説にも表れてしまったのかもしれません。自分の根っこにあるテーマなのでしょうね。
――家族の問題が家族だけにこもらずに、拝み屋のおばあちゃんを通して、地域の人たちと繋がって解決に向かう様子も描かれます。
この小説の舞台は青森ですが、僕は青森のすぐ近くの宮城県出身で、地方特有の人間関係の近さがよくわかります。ただ、子どもの頃はその近さがすごくイヤだったんです。僕の家の事情を地域のみんなが知っていて、興味本位で中途半端に口を出してくる。でも大人になって自分の生い立ちに対する気持ちが整理できたとき、あの距離の近さに助けられたこともいっぱいあるなと気づきました。ここに困っている人がいる、ということを周囲がわかっていることって、やはり大事だと思います。
――作中では児童虐待も描かれ、中途半端にしか助けない大人を蒼は糾弾します。「……大人は、大人は勝手だよ。子どもはどうしたって弱くて、生まれてくる環境も選べない。与えられた状況を受け入れて、生きていくしかない」。この言葉に胸が突かれました。
これは思わず自分が出てしまったところ。僕は両親からたくさんの愛情を注がれてきましたが、それでも耳の聴こえない親を持ったことで生じる困難を前にしたとき、蒼と同じような気持ちになりました。都合のいいときにだけ手を差し伸べて、それ以外は知らないふりをする。そんな大人が大勢いたので、苦しかったんです。蒼のセリフには、あの頃の自分の核心的な思いが込められています。
ただ一方で、矛盾するようですが、目の前に困っている子どもがいたら、中途半端でもいいから関わってほしい、気づいてあげてほしいとも思います。追い詰められた子どもは「そんなものいらない」ってはねのけるかもしれないけど、無関心よりよっぽどいい。「何もしない善より、する偽善」だと思います。そう考えられるようになったのは、僕が大人になったからかもしれませんが。
――蒼はひとり親家庭であることを恥じ、友だちを積極的に作れませんでした。そのことをお母さんが感じ取っていたのなら、間接的に責めていたことになるのでは、と気づきます。これは、エッセイに書かれている五十嵐さんとお母さんとの関係にも重なりました。
思った以上に僕は、蒼と自分を重ねながら書いていたのかもしれません。僕はずっと耳の聴こえない親が恥ずかしくて隠してきました。その後、両親には、謝罪の気持ちを伝えることができましたが、両親を傷つけてきたことはいまだに後悔しています。
小説もエッセイも、僕にとって書くことは心を整理すること。この小説を書いたことで、あらためて祖母や母に対する思いに気づかされることがありました。自分のしてきたことの後悔や罪悪感もくっきりしましたし、でも同時に、すれ違ったままお別れをしてしまった祖母から、実はたくさん愛されてきたことも思い出せ、あたたかな気持ちになりました。
伝えたいことは「いるんだよ」
――エッセイストとしてデビューされた五十嵐さん、もともとは小説家志望だったそうですね。
当時はあまりに出版業界のことをなにも知らなくて、書く仕事といえば小説家、小説といえば純文学だと思い込んでいたので、最初はひとりで純文学を書いて応募していたんですよ。でも1次通過すらしなくて。それならまずは勉強しなければと思い、さまざまな芥川賞受賞作を手に取りました。でも、なかにはうまく理解できないものもあって、僕には純文学の素養がないんだと落ち込みました。そんなときに、友だちから、エンタメ小説に挑戦してみれば、と言われたんです。
あらためてエンタメ小説を読んでみたら、読者を楽しませながらも社会問題を訴える優れた作品がたくさんあった。僕自身、社会問題について書きたいと思っていたので、「これだ!」と感じ、エンタメ小説について学ぶために、2019年に森村誠一・山村正夫記念小説講座の門を叩きました。
そこから縁あって先にエッセイストとしてデビューし、2022年には『エフィラは泳ぎ出せない』(東京創元社)で小説家デビューしました。
――エッセイストからの小説家デビュー、個人的に勇気がもらえるお話です。小説家・五十嵐大としては、どんなことを大事に書いていきますか。
理不尽な痛みを押し付けられている人たち、社会的なマイノリティ、そういう人たちのことをこれからも書いていきたいです。
僕が子どもの頃、コーダの存在は可視化されていなかった。耳の聴こえない親に育てられている、聴こえる子どもたちが、どんな困難や苦労を抱えているのか気づかれていなかったんです。いわば、透明人間にされていたのだろうと思います。そして、現代社会のなかにも同じような存在がまだまだいるはず。僕自身が気づけていない、あるいは無視している存在だっていると思います。だから可能な限り、彼らを見つけていきたい。そして、「ここにいるんだよ」と伝えていきたいです。
そういった存在を無視した、純粋にエンタメ性を追求した作品も面白いと思うけれど、僕がそればかりを書いてしまったら、あの日、いないことにされた自分を裏切ることになる。たくさんの人に読んでもらえる面白さと、自分事と思えるような社会問題の描き方、どちらも腕を磨いていきたいです。
――最後に、今作に込めた思いを聞かせてください。
『拝み屋のおばあちゃんと僕』は、読者にあたたかな気持ちになってほしいと願いを込めて書いた作品です。作者としても、書いているうちに、どんどん蒼やおばあちゃんが好きになり、この人たちを幸せにしたいと思えました。僕は基本的にネガティブな性格なんですけど(笑)、この作品を書きあげたときは心がぽかぽかしていました。みなさんにも同じ温度を届けられたらうれしいです。謎解きや青森の土地柄など面白さにもこだわったので、気楽な気持ちで読んでください。