長野県で地域医療に従事する現役医師で、医師を主人公にした『神様のカルテ』シリーズなどで知られる小説家、夏川草介。本書は著者初のファンタジーであり、国内でヒットを遂げるばかりか四十以上の言語で翻訳出版された、世界規模で「売れてる本」だ。
主人公の夏木林太郎は、本好きの高校生。家庭の事情で幼い頃から、古書店を営む祖父と二人暮らしをしてきた。しかし、祖父が急逝してしまい、叔母の家に引き取られることが決まり、古書店や友人たちと別れることに。そこに現れたのが一匹のトラネコだ。「わし」の一人称で喋(しゃべ)るトラネコは、「お前の力を借りたい」と申し出る。ある場所に閉じ込められた本を解放したいのだ、と。
行き止まりであるはずの古書店の壁の向こう側に次々と現れる、トラネコが「迷宮」と呼ぶ異世界には、ボスが待ち構えている。異世界探訪に時間を割かず、速攻でボス戦が始まる趣向が面白い。林太郎の武器は、言葉だ。本に関する偏った価値観や哲学を持つ各章のボスと対話し、過ちを認めさせることで、彼らが所有する本たちの解放を試みる。例えば「第一の迷宮」のボスである白スーツの男は、多読こそが善であると信じている。その論理に潜む弱点は何か。
本と猫、という本好きにとっては垂涎(すいぜん)の組み合わせを目にして、優しい物語なのかなと想像していたら痛い目にあう。ベースには、個人主義化・効率化が蔓延(まんえん)した現代社会に対する強烈な悲観がある。作中で繰り返し登場する「本には力がある」というフレーズは、その悲観を打ち破るための合言葉だ。それだけではない。読むことによって「本の力」を汲(く)み上げる読者にも、例えばこの本を読むあなたにも、現実をかすかに変えていく力があるのだと教えてくれるのだ。=朝日新聞2026年4月11日掲載
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小学館文庫・715円。22年9月刊。17年2月の単行本刊行から累計22刷19万3千部。「映像化など大きな話題がなくても、定期的に重版が出る不思議な売れ方」と担当者。続編『君を守ろうとする猫の話』が3月に文庫化された。