岸本七子「煙の向こうに声が聞こえる」 宙を漂い降り積もる静かな時間
舞台は地方の海辺の街。主人公は、たばこの煙をくゆらせると、その向こう側にいる人の心の声が聞こえる、少し不思議な力の持ち主だ。地元を離れず個人営業の便利屋として気ままに過ごす日々の中で、さまざまな人々の交錯するドラマが描かれるが、その能力が何か劇的な展開を生むわけではない。心の声は空間に一瞬漂うだけで、煙とともにすぐ流れ去っていき、そっと距離をとろうとする彼の遠慮がちな姿勢の方が印象に残る。何かが見え隠れするからこそ、それ以上踏み込まない。その抑制された距離感がこの作品の物語や表現のすべてを貫いていて、読み進むとじわじわと心に響いてくる。
街を逃げ出した人。街に流れ着いた人。どこにも行けず日々を過ごす人。心に何かを抱えこんだ人たちの穏やかな表情の向こう側で、たばこだけでなくさまざまなものが宙を漂う。温泉のゆったりとした湯けむり、夏の思い出の花火の煙、風邪をひいた時に差し入れられた粥(かゆ)の湯気、誰かを弔う線香の煙――。静かな時間が空間を漂い、読む者の心に降り積もっていく。作品の印象はとても地味だが、細かいところまで繊細な配慮の行き届いたマンガ。読み終えて、自分の心がなだらかになっていく心地よさを感じた。=朝日新聞2026年5月2日掲載