「円本」というものが世を席巻した時代があった。1冊1円、お手頃価格の文学全集。その登場から、今年でちょうど100年になる。
日本近代文学館(東京都目黒区)で、「『円本』から読む日本近代文学」という特別展が開かれている。展示されている巨大な新聞広告がすごい。「本集のないのは家庭の恥辱」「直(す)ぐ書店に申込んで下さい」。1927年、東京朝日新聞に載った広告だ。
その前年の26年12月、出版社「改造社」が「現代日本文学全集」の刊行を開始したのが「円本」の始まりだ。企画が当たると、他社も安価な全集で追随。激しい販売競争が始まった。
「円本」はなぜ売れたのか。
重要な背景は、数年前の関東大震災だ。市中の大方の本が焼け、一方で経済が混乱して、本の価格が急上昇した。特別展の編集委員を務めた山岸郁子・日本大学教授は「知的なものを読みたい欲望が高まったところに、ちょうどこの企画が現れた」と分析する。
山岸教授とともに編集委員を務めた十重田裕一・早稲田大教授は「円本ブームの頃と今とでは、ちょっと似ているところがある」と指摘する。確かに、本が急激に値上がりしていた状況は、本が高くなって気安く買えなくなってきた昨今と重なる。
円本ブームは出版業界に大きな変革をもたらした。大量注文に対応するため高性能の印刷機が導入され、分業化・機械化が急速に進んだという。
「同じようなことがまた起こる可能性がないとは言えません。でも次にブームを起こすのは、もう紙の本ではないかもしれませんね」と十重田教授は言う。
「円本」は痛烈な批判も浴びた。
頓知と反骨のジャーナリスト、宮武外骨が「一圓本流行の害毒と其裏面談」と題する本で商業主義的な販売手法を嘲笑したのが、その一例だ。競合のあまり品質が伴わない商品も相次ぎ、ブームは失速する。
だが、批判は新たな果実も運んできた。
岩波文庫の巻末にある「読書子に寄す 岩波文庫発刊に際して」という文章を、本好きなら目にしたことがあるはずだ。でもそこに「近時大量生産予約出版の流行を見る。その広告宣伝の狂態は」……という一節があることは、たぶんそんなには知られていない。
「編集に万全の用意をなしたるか」「翻訳企図に敬虔(けいけん)の態度を欠かざりしか」と手厳しい言葉が続く。岩波文庫の創刊は円本ブームまっただ中の27年。「円本のよくない点を批判し、よい部分を受け継ごうというのが、言ってみれば岩波文庫の始まりだった」と十重田教授は言う。
震災による本の値上がり、廉価なシリーズ本の流行と衰退、そして岩波文庫の登場。100年前の「出版革命」がもたらした明暗は、現在の活字文化の行方についても、いろいろ考えさせてくれる。(編集委員・柏崎歓)=朝日新聞2026年5月27日掲載