韓国への留学経験なし 大学では英語学を専攻
昨年11月、東京・神保町で開催された「K-BOOKフェスティバル2025」に作家イ・ユリさんが初来日し、自身の初邦訳小説『ブロッコリーパンチ』(リトルモア)のトークイベントを行った。本書は、作者デビュー作「赤い実」を含む8編の短編集。ある朝、彼氏の右手がブロッコリーになっていた話や、亡き父の遺言に従って鉢植えの土に遺骨をまぜたら、植木が父の声で喋りだした話など、日常生活に起こるちょっと奇妙な話がさらりと描かれ、ユーモアと優しさが感じられる作品群となっている。
翻訳を担当した山口さやかさんは、本書が初の単独翻訳となる。翻訳家といえば、大学でその言語を専攻していたり、留学をしていたりするのではないかと連想するが、山口さんの大学での専攻は英語学で、韓国への留学経験もない。
「小さい頃から方言や語学にはすごく興味がありました。特に〝読めない文字〟が気になったんです。高校時代はヒエログリフを勉強していたし、タイ語もかじりました。インドに興味があったので、ヒンディー語、タミル語、ベンガル語を勉強して、どれが主語や動詞かを把握したり、文字を音で読んだりすることはできるようになりました。意味はよくわかっていませんが(笑)」
大学で英文学科を選んだのはたまたま合格したから。東京で一人暮らしをしてみたかったので進学したものの、英語や文学にはさほど興味がなかったという。しかし、大学で韓国語を専攻している友人ができ、文字や数字などを教えてもらううちに仲良くなり、一緒に韓国に旅行に行くようになった。
初めての韓国旅行 気になる文字がいっぱい 独学で韓国語に挑む
「2000年に初めて韓国に行った時は、気になる文字がいっぱいで、勉強したい!と思いました。しゃべりたいとか、読みたいといった気持ちはあまりなく、言語の仕組みを知りたくなったんです」
2人組男性デュオ「モドゥン」の楽曲に心を奪われて
大学卒業後は飲食業の会社に就職し、会社員として仕事をする傍ら、独学で韓国語の勉強を続けていた。そんなある日、語学学習誌「韓国語ジャーナル」の付属CDに収録されていた、「モドゥン」という韓国の2人組男性デュオの楽曲に心を奪われる。
「とにかくパク・ヒョンジュンさんの声が良すぎて、本人にその感動を伝えたい!と思いました。Facebookで検索したら本人が出てきたので、いきなりメッセージを送りました」
すると、まさかの本人から返事が届き、そこからやりとりが始まったという。パクさんは長文の日記をよく投稿しており、読書家でもあったので本の紹介文なども書いていた。山口さんは、パクさんが韓国語で書いていることを知りたい一心で、韓国語学習へのモチベーションが一気に高まったという。
「当時、韓国語能力検定試験が3級くらいの初中級レベルだったのですが、一気に6級までいきました。パクさんは音楽家じゃなかったら作家を目指していた、というだけのことはあって、とてもきれいな文章を書くんです。それを読んでいたのもいい勉強になりました」
翻訳コンクールに応募 グループに誘われて勉強
韓国語能力検定試験6級に合格した山口さんは、語学学習の次なる目標を探していた。上級者には通訳や翻訳という選択肢が考えられるが、話すのは自分に向いていないから翻訳の道に進んでみようと思った山口さん。腕試しとして「日本語で読みたい韓国の本」翻訳コンクールに応募するようになった。
「2017年の第1回から毎年応募していたのですが、どういうところに気をつけて翻訳すればいいのかわからなかったんです。そんな時、翻訳のスタディグループに誘われてみんなで勉強しているうちに、翻訳のことが少しずつわかっていきました」
山口さんは、「日本語で読みたい韓国の本」翻訳コンクールに加え、韓国文学翻訳院(韓国文化体育観光部傘下の政府機関)が主催し、新人翻訳家の発掘を目的とした「韓国文学翻訳賞翻訳新人賞」にも応募するようになった。そして、2022年、新人賞受賞の知らせが舞い込んだ。
「今まで翻訳コンクールで選考に残ったことがなかったし、ある日突然選ばれたので、はじめは、『何かの間違い?』と思いました」
実はこの時の課題文が、イ・ユリさんのデビュー作「赤い実」(『ブロッコリーパンチ』所収)だったのだ。
「この本を日本で出版するにはどうしたら……」 出版社を探す
その後、新人賞受賞が決め手となって、韓国政府主催の「翻訳者養成プログラム」公募にも選ばれた山口さんは、約2週間ソウルに滞在して、世界各国から参加した新人翻訳者と共に学ぶ機会にも恵まれた。翻訳の授業で、「みんなで取り組みたい課題を持ってきてください」と言われ、新人賞受賞作の「赤い実」を持参したところ、講師を務めた韓日翻訳家の先輩から「これは日本で出版しないの?」と聞かれた。
「新人賞を受賞したらどこかから翻訳の声がかかるかと思っていたのですが、特に何もなかったんですね。この時に、講師に言われて、『日本で出版するにはどうしたらいいんだろう?』と初めて気づいたんです」
講師に促され、まずは韓国の出版社に日本語訳の版権について問い合わせのメールを送った。すると、「他の国は決まっているけど、日本だけ決まっていない。日本語の資料もないから、日本の出版社に売り込めずにいます」という返事が返ってきた。そこで「私が資料を作ります!」と名乗りを挙げ、山口さんも日本でイ・ユリさんの本を出してくれる出版社を探すことになった。
「たまたま知り合いから、リトルモアの編集者さんの連絡先を教えてもらったんです。韓国文学の本は出版していませんでしたが、映画やカルチャー関係の本が多いので、作品の世界観に合っていると思いました。とりあえずリトルモアに行ってみたら、『やりましょう!』ということになったのです」
こうして、「赤い実」を含む短編集『ブロッコリーパンチ』の出版が決まった。同書に収録された7編は新規に翻訳したが、「韓国文学翻訳賞翻訳新人賞」授賞式にイ・ユリさんも出席しており、その時に本人と対話したことが、翻訳する上で大いに役立ったという。
「音読してみてリズムを確かめながら訳していきました」
「イ・ユリさんならこんな感じで言いそう、などと想像することができました。文体の特徴として、本人の一人語りで、文章がずっと途切れずに長く続くというものがあります。短く切ったらその特徴がなくなるので、訳したら音読してみてリズムを確かめながら訳していきました」
韓国語に限ったことではないが、翻訳小説だと、その国の生活習慣や言い伝えなどについて注釈が入っていることが少なくない。読者の理解を助けるものではあるが、一方で作品のテンポを止めてしまうことにもなりかねない。
「私が翻訳本を読んでいる時、注釈だらけだと流れが止まって嫌なので、想像でなんとなくわかることもあるところは、注釈はなるべく控えるようにしました」
『ブロッコリーパンチ』は発売前からK−BOOK界隈で話題になり、発売後も好評だったことから、イ・ユリさん作品の翻訳第2弾が決定。今年9月に『素敵な場所で会いましょう』(リトルモア)が発売予定で、山口さんは現在、翻訳作業に追われている。
「イ・ユリさんの作品には、愛とは何かというテーマが描かれていて、この作品もその流れを組んでいます。韓国ではイ・ユリさんの作品はたくさん出版されていますが、『ブロッコリーパンチ』の次ならこれ!とこの作品を編集者に猛プッシュしました」
好きなデュオに出会い、気がつけば翻訳家に これからは?
好きなミュージシャンに出会ったことがきっかけで韓国語の語学力が飛躍し、気づけば翻訳家になっていた山口さん。そんな自分を〝たまたま成功した言語オタク〟と笑っている。
「相変わらず韓国ドラマは見ないし、メジャーなK-POPも全然わからなくて、BTSってメンバー何人いるの? というレベル(笑)。会話も苦手と思っているので、ここぞという場面以外は韓国語も自分からはあまり使っていません。でも、韓国文学のことをよく知らない人が、知らないまま『ブロッコリーパンチ』を手にとって、自然に受け入れてくれたらうれしいし、これをきっかけに韓国文学に興味を持ってくれる層が増えたらいいなと思っています」
山口さんの言語オタクぶりは健在で、今はベンガル語をもっと深くまで学びたいと思っている。
「ラビンドラナート・タゴール(アジア初のノーベル文学賞作家)の詩を翻訳ではなく、原語そのままで味わうのが夢なんです」
山口さんの韓国文学翻訳と、新たな言語探求は始まったばかりだ。