境界とは曖昧(あいまい)な存在である。それが「分断」する、といえば力にまかせた暴力的な装置に思えるが、「横断」する、といえば横にたち切るという意味よりは、むしろ異なった領域を超えてつながる、という創造的な意味になる。こうした正反対の用法に開かれていることこそ境界の多義性ゆえである。人間は無数の境界を社会生活の中に引きながらも、それをただの障害とは考えず、意識の跳躍の足がかりにして、境界を越えて往(い)き来する自由を探し求めて来た。
世界が内向きに
しかしいま境界をめぐる私たちの思考は、人々を分断する強圧的な「壁」の問題に集約されているように見える。トランプ米大統領の、メキシコとの国境線すべてに壁を建設するという極端な公約が象徴するように、政治の世界での内向きの国家主義が他者を排斥し、自らの安全を確保する「壁」の存在を肯定する動きが強まっている。
『世界を分断する「壁」』は、国連平和維持活動に深く関わった二人による、現代世界のさまざまな「壁」の実態とその由来を鮮やかな写真とともに報告する貴重な一冊である。
そこで紹介される「壁」にはさまざまな類型がある。領土紛争による壁(西サハラの砂の「土手」やインド・カシミールの「電気柵」)、領土問題のない国家間の壁(北アイルランドの「ピースライン」やインド―バングラデシュの「囲い」)、軍事紛争後のフェンス(南北朝鮮の間の非武装地帯やキプロスを二分する「グリーンライン」)、そして移民防止壁(アメリカ―メキシコ国境の壁、モロッコ北部スペイン領飛び地のフェンス)など。その素材もコンクリート、ブロック塀、金属フェンス、有刺鉄線、果ては砂の土手やドラム缶まで、おどろくほど多様である。
理解を育む努力
世界の「壁」の現状を知ると、どこかで不条理な感覚が襲う。その理由はおそらく、壁が自らの論理によって自らを維持する自閉的なシステムであることを、私たちが直感するからだろう。それは恐れから生まれ、暴力を恐れてさらなる暴力を生む防護壁であり、結局は人間の頭のなかにある壁の、現実への反映にすぎない。人間が自らの心理的な壁を壊す勇気を持っているかぎり、現実の壁もまた必ず崩れる。そう信じつつも、現実の壁の建設をやめることができない人間たち。この矛盾こそが「壁」の問題の本質である。
壁に阻まれつつ、それを越えて横断的な理解を育もうとする努力は地道に続けられている。イスラエルが不当な占領を既成事実化するために造った「分離壁」によって、買物(かいもの)や通学や病院にも行けず、日々爆破に怯(おび)えるパレスチナの民。その日常の細部を活写したルポルタージュ『ぼくの村は壁で囲まれた――パレスチナに生きる子どもたち』も、状況を知ることで生まれる相互理解への希望を語る。
あるいは「壁」にたいする芸術家による反応の刺激的な例として注目の写真集が、昨年アメリカで出版されたミズラックとガリンドによる『Border Cantos(ボーダー・カントス)』である。ここには、アメリカ―メキシコ間の長大なボーダーの意外な文化景観の意味をミズラックの写真映像をつうじて探究し、そこに写された国境地帯のさまざまな遺物を素材に作られた不思議な「楽器」を作曲家のガリンドが演奏して国境地帯の「音」や「声」を象徴的に再現する、という刺激的なプロジェクトの全貌(ぜんぼう)が示されている。
越境者とは単なる「不法入国者」ではない。一人一人の生存を賭けた物語を私たちはいかに「聴く」ことができるのか。物理的な「壁」のイメージに限定された私たちのボーダーへの想像力を哲学的・詩的に広げる、刺激的な本である=朝日新聞2017年9月17日掲載