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追悼 フィリップ・ロス 虐げられた者の思い刻む文学

 現代アメリカで最も偉大な作家、ロスが亡くなった。1933年ニュージャージー生まれの彼は、1959年の『さようならコロンバス』(佐伯彰一訳、集英社文庫・絶版)以来、キリスト教国に暮らすユダヤ人の苦難や、父と息子の葛藤、強い性欲に振り回されることの苦しみなどを真正面から扱ってきた。

米国内での差別

 人生の汚辱をリアルに捉える彼の作品はどれも危険だ。貧しい移民の怒りや、差別された者の心の傷や、無視されてきた者の叫びに満ちている。まさに元祖マイノリティー文学であり、それこそが文学の本流であると感じさせてくれる。
 たとえば『プロット・アゲンスト・アメリカ』(2004)だ。第2次世界大戦がヨーロッパで勃発したのに、アメリカ合衆国はなかなか参戦しない。実は大西洋横断で国民的な人気を得て、大統領にまで上り詰めたリンドバーグは、ヒトラーに操られていたのだ。大統領本人がユダヤ人に対する差別発言を繰り返すなか、ロス家の人々は徐々に追いつめられる。
 公正でない政府には従わない、という信念を持つロス家の父親は、保険外交員の職を失ってもニュージャージーに留まる。だが実際に百人以上のユダヤ人が虐殺されてしまう。いざカナダに逃げようとすると、すべての国境が封鎖される。人気者の大統領が危険な政策を繰り出す本作は、まるで今のトランプ時代を予言しているようだ。
 『父の遺産』(1991)はその父親の死に焦点を当てた作品である。長年差別と闘いながら、保険外交員を続けて所長にまで上り詰めた父。その脳に巨大な腫瘍(しゅよう)が発見される。残された日々は長くない。息子のフィリップは実家に通いながら、父や祖父のアメリカでの苦闘に思いをはせる。
 ラビの教育を受けながらも帽子工場で働き、生涯イディッシュ語しか話さなかった祖父。人を助け支えたいという強固な倫理観を持ちながら、他人は自分ほど強くないという事実を理解できない父。退職後の父は妻をののしり続けるが、いざ彼女が死ぬと弱り果ててしまう。

作品の源は父親

 ある日、父がバスルームでぶちまけた大量のウンコを掃除しながら、フィリップはこれこそが父の遺産なのだと思う。今この瞬間、父が生きているという現実。それが自分の命にも繋(つな)がっているのだ。頑固で、曲がったことを許さず、常に批判的で、でも冗談が大好きという父親の性質は、息子にもそのまま受け継がれている。ロスの膨大な作品の源はこの父だったことが本作を読むとよくわかる。
 『素晴らしいアメリカ野球』(1973)は史上最弱の大リーグ球団を描いたコメディー作品だが、本作もまた、正義を求める意志に貫かれている。実は第2次大戦後まで、愛国リーグという第三の大リーグが存在した。けれども巨大な陰謀によって、記憶からも記録からも抹消されてしまったのだ。
 そのリーグで不思議な輝きを放っていたのがマンディーズだ。腕や脚がなかったり、英語がほとんど話せなかったり、極端に年寄りだったりする選手ばかりのポンコツ球団の彼らはある日、ホームの球場すらアメリカ軍に奪われてしまう。「アメリカのいけにえの羊」となった彼らは、大リーグで唯一アウェーの試合だけを続けて、アメリカ大陸をさまよう。打ち負かされ、笑われるだけの彼らは、それでも闘う意志を失わない。
 放浪を続け、ついには完全な忘却にさらされるという彼らはもちろん、迫害を受け、ナチスによるホロコーストの犠牲者となったユダヤ人を象徴している。ダメ人間だって密(ひそ)かな思いはあるんだ。こうした意志こそ、ロスの文学の核心にある。=朝日新聞2018年7月28日掲載