1. HOME
  2. 書評
  3. 「モラルの話」書評 弱い命に手を差し伸べる心

「モラルの話」書評 弱い命に手を差し伸べる心

評者: 都甲幸治 / 朝⽇新聞掲載:2018年08月11日
モラルの話 著者:J.M.クッツェー 出版社:人文書院 ジャンル:その他海外の小説・文学

ISBN: 9784409130407
発売⽇: 2018/05/30
サイズ: 20cm/157p

モラルの話 [著]J・M・クッツェー

 排水溝の中で、猫がおびえながら子どもを産んでいる。なぜか。見つかれば、猫を害獣と見なす村人たちに殺されてしまうからだ。だが、通りかかった老女は猫を見つけ思う。「わたしも母親なの」。そして母子を家に連れて帰る。短編「老女と猫たち」の語り手はおそらく、他の著作でも動物の権利を論じてきたエリザベス・コステロだ。彼女の論敵はアメリカに住む息子で、弱った母親を、このスペインの集落から連れ出そうとしている。
 だから彼は言う。勝手に猫を増やしては、村人の迷惑になるではないか。それは論理的には、母親の議論よりずいぶんと説得力がある。けれども、彼女を感情的に納得させない。だからいくら言い負かされても、息子の言うとおりにはしない。しかも猫だけではない。彼女は知的な障害を持つパブロとの奇妙な同居すら始めていた。
 クッツェーは作品を通して、現代社会を覆う思考法と闘ってきた。効率のためにはどんなことも許される。だから生まれたばかりの雄のヒヨコが膨大な数、殺されても問題ない。だが彼は言い返す。そんな世界は嫌だ。こうした社会の中心には、人間だけが価値がある、という思想がある。だがそのために、動物たちだけでなく、多くの人間たちもまた、戦争や奴隷制のなかで、動物扱いされ殺されてきたのではないか。
 こうして、クッツェーは西洋の全歴史と敵対し、常に負ける。なぜなら彼の言うモラルは、現代を支配する力の外側にあるからだ。だが彼の作品は命への配慮の感覚を読者の心に残す。「あなたは人に感じ方を教えている」という娘のコステロへの言葉は、そのままクッツェー自身にも当てはまるだろう。
 モラルとは単なるお説教ではない。目の前の弱者に、考える暇もなく反応してしまう心の動きだ。このクッツェーの思いに、僕は今を超えていく力を感じる。
    ◇
 J.M.Coetzee 1940年、南アフリカ生まれ。『恥辱』などで英ブッカー賞を2度受賞。2003年にノーベル文学賞。