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保坂和志「ハレルヤ」書評 猫の教え受け、物語の向こうへ

評者: 都甲幸治 / 朝⽇新聞掲載:2018年10月06日
ハレルヤ 著者:保坂和志 出版社:新潮社 ジャンル:小説

ISBN: 9784103982081
発売⽇: 2018/07/31
サイズ: 20cm/173p

ハレルヤ [著]保坂和志

 言葉を持ったことで僕らは何を失ったのか。たとえば、1週間という表現で捉えた瞬間、時間は塊になる。しかし本当はその一瞬一瞬が異なる感覚で満ちているのに、僕らはそれをはっきりとは思い出せない。
 だが猫は違う。語り手が墓地で出会った花ちゃんは、片目がなくても体を揺らし体毛で探りながら世界を立体的に見る。経験を無数の感覚として憶えているから、両目が見えなくなっても家の中を動き回れる。
 両目は立体視のためにある、というのは物語の一つだ。そういう、言葉でできた物語をため込んだ僕らは世界をわかったつもりでいる。だがそれじゃあ、どうして花ちゃんはこんなに自由に生きられるんだ。
 このとき、猫の教えから目をそらす生き方もある。しかし語り手はそれを選ばない。むしろ物語を突き破り、その向こうに行こうとする。まるで祈りの言葉「ポロポロ」に意味を持たせることを拒絶し続けた田中小実昌のように。そしてこの運動こそが小説なのだ。
 やがて花ちゃんは病に倒れる。それでも花ちゃんは病院脇の庭で楽園にいるように遊ぶ。こんなにも死に近づいているのに。このとき花ちゃんは「死は悲しみだけの出来事ではないということ」を語り手に教えてくれている。
 そして語り手は気づく。この花ちゃんの中には、以前飼っていた猫、チャーちゃんもいるのではないか。実はチャーちゃんは花ちゃんという形をとって、自分たち夫婦のもとに戻ってきてくれたのではないか。
 もちろん2匹は別の猫だ。だが同時に、今そこにチャーちゃんがいる、という自らの感覚を信じるかぎり、チャーちゃんは死んではいない。そのとき過去は現在と重なり、死は生と一つになっている。
 同時に多方向に広がる文章で、保坂は偶然の意義や思いの力について語る。そうした彼の言葉の魅力そのものが、現代における文学の存在意義を示している。
    ◇
 ほさか・かずし 1956年生まれ。『この人の閾』で芥川賞、本書所収の短編「こことよそ」で川端康成文学賞。