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「水の匂いがするようだ 井伏鱒二のほうへ」書評 自在に泳ぐ〝還暦の鯉〟の趣

評者: 佐伯一麦 / 朝⽇新聞掲載:2018年10月13日
水の匂いがするようだ 井伏鱒二のほうへ 著者:野崎歓 出版社:集英社 ジャンル:日本の小説・文学

ISBN: 9784087711493
発売⽇: 2018/08/03
サイズ: 20cm/283p

水の匂いがするようだ 井伏鱒二のほうへ [著]野崎歓

 作家には、批評しやすい作家と批評しにくい作家とがいる。韜晦や屈折を旨とする井伏鱒二は、後者の代表格で、論ずれば論ずるほど、手の中からするりと逃れてしまう??あたかも活きのよい魚のように。その文学は、魚を尊ぶと書く鱒の字をペンネームに用いたことに端を発している。
 自らも少年期に釣りを楽しみ、『川釣り』を愛読してきたという著者が、本書の第1章にあたる「魚を尊ぶひとの芸術」を「井伏鱒二小論」の副題で文芸誌に発表したのは、2016年の初めで、そこでの「鯉」と「山椒魚」についての読解は、川の中の石のように流れに手応えを与えており、その下に潜んでいた初期の井伏文学を捕まえ得た、という感触があった。
 一方で、置かれた石はあくまでも布石である印象があり、捕まえようとしているのはもっと大きな全体像ではないか、との期待を込めた予感も抱かされた。願いは叶えられ、引き続き「井伏鱒二論」として、およそ隔月ごとに書き継がれ、本書としてまとまった。
 著者は仏文学の翻訳者で、一見意外な取り合わせに思えるが、田舎言葉と都会言葉のずれに敏感で(例えば『朽助のいる谷間』)、『さざなみ軍記』『黒い雨』など日記を先行テキストとした創作があり、漢詩の訳や『ドリトル先生』の翻訳も行った井伏文学は、翻訳的な特徴を持ち、欧文脈の論理的発想で日本人のリアリティーを描いたので、その文学を論じるのに絶妙な取り合わせだった、と数々の卓見に触発されつつ感じ入らされた。
 井伏は、亡き親友から譲り受けた白い鯉をプールに放つ「鯉」から、原爆投下後の広島で鰻の子が元気に溝川を上っていく様に水の匂いを感じる『黒い雨』へと至るまで、〈人間存在の危機を魚の生に託し、その救済を願い続けた〉、とする数え60の著者自身が、井伏の随筆にある〝還暦の鯉〟となって、その文学の水を自在に泳いだ趣がある。
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 のざき・かん 1959年生まれ。東京大教授。著書に『ジャン・ルノワール 越境する映画』など。訳書も多数。