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テニスと日本 国際競争激化、快挙も苦境も

躍進中の大坂なおみ。「東レ・パン・パシフィック・オープンテニス(東レPPO)」でも会場を沸かせた

 20歳(当時)の大坂なおみがテニスの全米オープンで優勝した。全豪、全仏、ウィンブルドン、そして全米は、テニスの4大大会あるいはグランドスラムと総称され、それぞれが100年を超す歴史を持つ。大坂のシングルス制覇は、日本選手としては男女を通じて史上初。我が国における広範なテニスの普及と伝統を考えたとき、エポックメイキングな快挙だった。
 テニスは1968年にプロを受け入れ、オープン化。ダブルス種目では沢松和子を皮切りに、平木理化、杉山愛が優勝したが、シングルスでは沢松の全豪4強、伊達公子のウィンブルドンなど3大会での4強、男子では2014年全米の錦織圭の準優勝が最高だった。
 日本のテニス人気は世界に類を見ない。一時はテニス月刊誌が5誌もあり(現3誌)、70年代からは男女の国際大会も多く開かれてボルグ、マッケンローだけでなく、キング夫人、ナブラチロワ、グラフ、ヒンギスら女子選手の名前も知られてきた。

高い社会貢献度

 『女子テニスと私 東レPPOとの30年を振り返る』は、こうした女子ツアーの流れを振り返るのにうってつけで、著者は84年の第1回から30回までの東レPPOのトーナメントディレクター。冷戦崩壊からの劇的な情勢変化や2度の震災を乗り越えての開催に、テニスの社会貢献度を辿(たど)ることができる。技術書が多い中で貴重な回想録だ。
 テニスはそもそもローンテニス、芝の上のゲームだった。芝のない日本では軟式庭球(ソフトテニス)として広まり、1903年に作られた現・岩手県立一関第一高校の校歌に「野球庭球大弓」とあるように、その歴史は古い。硬式への流れを作ったのが男子の国別対抗戦、デビスカップ(デ杯)だった。日本は初参加の1921年にいきなり決勝で米国と戦う派手なデビューを飾った。デ杯が五輪並みに“世界飛躍”の象徴になれば選手へのプレッシャーも凄(すさ)まじく、佐藤次郎の自死という悲劇が生まれた。『さらば麗しきウィンブルドン』は死の周辺、当時の期待の大きさを探っている。

過酷な選手生活

 もう一つの特色が皇室との結びつきだろう。今上天皇の皇太子時代、美智子妃との軽井沢での「テニスコートの恋」はテニスブームを巻き起こし、若者が小脇にラケットを持つのが流行(はや)った。『「文藝春秋」にみるスポーツ昭和史』(文芸春秋・絶版)収録の、陛下のコーチ、石井小一郎「皇太子テニス日記」がその原風景を記している。
 テニスは世界ツアーという他に類のない規模で展開され、大坂の優勝賞金が男子で優勝したノバク・ジョコビッチと同じ4億2千万円だったように、賞金は男女同額。女子の権利獲得闘争の先頭に立ったのがキング夫人で、自伝『センターコートの女王』(中野圭二訳、新潮文庫・絶版)で当時の厳しさを知る。
 東西の壁が崩れ、プロが認められなかった社会主義国からも選手がなだれ込んで競争は激化。21世紀に入り東欧勢が躍進した中、6歳で渡米したシャラポワは異色だ。『マリア・シャラポワ自伝』には父親との苦労、セリーナ・ウィリアムズとの確執、自らの恋愛も赤裸々に綴(つづ)られている。男子ではアンドレ・アガシの自伝がドーピングなど生々しい内実を描き評判になった。
 オープン化からの国際競争が進むにつれ、日本のテニスは苦境に立たされた。独自の専用スタジアムがないなど、アマ・プロの壁の前にインフラ整備は進まず、興行のノウハウを持った人材も消えてトップ選手の来日はめっきり減った。広範な裾野を持ちながら、錦織、大坂ともに米国育ちという現実が複雑な気持ちにさせる。=朝日新聞2018年10月20日掲載