明治から平成まで4代にわたる天皇の旅を調べていた
――1989(平成元)年から30年間、天皇・皇后両陛下の旅の総距離は62万4321キロ! 鉄道や町歩き、お城などの著作で知られる竹内さんが、そもそもなぜ、両陛下の旅について調べてみようと考えたのですか。
じつは、今上天皇だけではなく、明治、大正、昭和天皇も含め、4代の旅のスタイルを調べていたんです。それ以前、江戸時代の天皇というのは、京都の御所にいわば閉じ込められ、一歩出るだけでも大変難しかった。それが明治に入ると、天皇陛下のお顔やお姿を全国津々浦々までお見せすることが始まった。「新しい日本の統治の姿を見せる」というのかな。政府の姿、イコール天皇の姿。そういうかたちに逆転したわけです。
――「統治の姿」としての天皇へと移行していったのですね。
過去3代についてはそれぞれ既に、情報の開示が進み、日々の記録が刊行されました。「天皇が、どこへ旅して、どこに泊まって」という詳しいデータが明らかになった。調べを進めていくと、単に政治的な効果だけではなく、旅……、「行幸」「行啓」ですね。いわゆる「行幸啓」のスタイルが、当時の国民の旅のスタイルの一つの象徴。それぞれの時代背景、戦争・平和の時代を体現している。4代調べていくなかでの「平成編」としてまとめたのが、今回の本だと個人的には思っています。
――ということは、今上天皇だけではなく、明治、大正、昭和の天皇のことも調べ上げたのですか。
はい。それを見ていると、今の天皇皇后両陛下の行幸啓のスタイルの特徴が見えてきて、非常に興味を惹かれました。自分は地図とか鉄道、東京とか、いろんなジャンルで(執筆活動を)やっているわけですけれども、共通して言えるのは、主に自分のフィールドが「明治以降である」ということ。近現代をいろんなジャンルで調べていくうちの一つのテーマとして、「天皇」が浮かび上がってきたんです。
――じゃあ、旅の軌跡について調べようと思ったのは、天皇陛下が「生前退位」を決める……。
はるか前です。10年以上前ですね。たとえば地図について調べていても、「天皇」にあたるんです。伊能忠敬の地図といったら有名ですけれど、江戸時代の地図が明治に入っても使われていた。地図、海図が整備されていないなか、明治天皇は行幸に出かけた。船に乗って出向いていったわけです。明治初期の「西国行幸」だと、瀬戸内海を船で旅するんですけど。
「西国行幸」は近畿・四国・九州の旅です。当時は瀬戸内海を旅するのでも、海の下にどんなものがあるのか、深いのか浅いのかという情報がないんですよ。無謀な旅ですよね、街道筋を旅するならまだしも。瀬戸内海では、明治天皇の乗る帆船の先を海軍が進み、そこで深さなどを測りながら進んで行った。そんな状況のなかで天皇は旅しているわけです。
行幸啓のスタイルには時代背景が表れる
――ずいぶんとまあ、「やっつけ行幸」だったんですね。
明治時代って面白くて、東海道本線の開通前、出来上がった木曽川鉄橋を明治天皇と皇后がトロッコのような車両に乗って渡ったりしているんです。今じゃ考えられないですよね。今のようなガチガチの警備の中で、分刻みのスケジュールを回るのとは違う、良く言えば大らかで、悪く言えば無謀な明治のスタイルがあって。まあ、それが、明治天皇。
大正天皇は大正天皇で、キャラクターの面白みや時代背景がある。昭和天皇は、戦前と戦後とでまったく、天皇としての「地位」からして違う。行幸啓のスタイルも違うわけですね。
――まず、手始めにリサーチは、どういったところから?
平成に入る前の3代の天皇については、それぞれの実録、「明治天皇紀」「大正天皇実録」「昭和天皇実録」が基本文献としてあります。ただ、「大正」と「昭和」が一般に見られるようになったのはつい数年前から。それ以前は様々な研究文献を辿るほかありませんでした。資料を収集し、あとは侍従の回想録、女官の回想録など、そういうのも見ました。
――今上天皇は宮内庁のホームページ「天皇皇后両陛下のご日程」で公開されていますね。
現在の両陛下については、情報自体はたくさんあります。ホームページで即位後の行幸啓のデータ、「おことば」がまとまっている。ただ、今の天皇陛下についてはまだ「実録」が一般に出る段階ではない。即位前については非常に難しいです。まだ、まとめきれていない。もちろん宮内庁の細かな文献や書類にあたればわかるんでしょうけど、まだそこまでやっていなくて、新聞や雑誌、元侍従などの回想録といった文献を集めて。距離や訪問先、宿泊地、経路を一つひとつ確認し、即位後30年ぶんの一覧表を約1年半で完成させました。
――いやはや膨大ですね。報道を通じ、両陛下が被災者や弱者に寄り添うかたなのだな、という印象を抱いています。竹内さんが調査を通じ実感したこととは?
今の天皇陛下ほど、天皇の地位というか、それについて厳しく考えていらっしゃる方はいないんじゃないか、というのが見えてきました。
――天皇の「地位」、と言いますと。
即位の際にも「憲法に定められた天皇の在り方を念頭に置き、天皇の務めを果たしていきたいと思っております」と明言された。そして、ひたすらずっと30年間、公務に励んでこられた。自ら、幼い頃に疎開、終戦、天地がひっくり返るような環境……、アメリカ人の家庭教師が就き、さまざまなことを体験していらっしゃる。そのなかで、日本国憲法の第1条で「天皇の地位」があるのは、日本国の象徴であり、国民の総意が裏付けになっている。国民の総意がなければ、天皇の地位すら危ういという部分を真剣に考えていらっしゃるのではないかと思うんですよね。
全身全霊をかけた公務が目に見えるのが「旅」
――象徴天皇としてのご自身の位置づけ、というのでしょうか。
それは全身全霊をかけて30年間、さまざまな儀式、公務で励んでこられた。その最も国民に見える形での現れが「旅」、行幸啓だと思うんです。報道されている部分だけではなく、即位前も含め、どこに行かれて何をされているのか。調べを進めるなかで強く感じました。
――それにしても、その移動距離たるや。被災地に外国に、戦地慰霊に、ハンセン病療養所に。たどり着いた結論が「天皇陛下は、日本一の旅人である」。
いや、凄まじいです。初夏に行われる「全国植樹祭」、秋の「全国豊かな海づくり大会」、そして「国民体育大会」も含まれます。その、言ってみれば当然、プライベートな旅ではないわけですし、「職業選択(の自由)」さえもないわけですよ。ご自分の運命を受け入れ、なおかつ、期待以上の行動をされていた。その象徴がこの地球15周半にも及ぶ距離。データには、都内の移動についてはカウントしていないので、実際はもっと距離は延びると思うんですけれど、その距離(の膨大さ)に、ご姿勢が現れていると思うんですよね。
――両陛下は戦地の慰霊、そして沖縄に絶えず思い入れを強くお持ちでいらっしゃいますね。
そうですね。「沖縄国際海洋博覧会(海洋博)」(1975年)。沖縄の返還3年後ですよね、当時、皇太子だった陛下と美智子さまは、開会式に臨席する前、献花のため「ひめゆりの塔」に出向かれた。その時、火炎瓶を投げられる事件に遭遇するわけですけれども、陛下はその日じゅうにコメントを出しているんです。
――当時の記事を振り返ります。75年7月17日、事件夜に発表された談話。「払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」
皇室ではこれまでこのような形での談話を発表したことはありません。異例中の異例です。事件は、一歩間違えれば大惨事でした。でも、案内役としてそばに立っていた「ひめゆり会」会長の身を案じて陛下は声を掛け、美智子妃とともに微笑みを絶やさず、予定通りにスケジュールをこなした。つまりそれは、「行動で示さなければいけない」。この本に書きましたが、ただ単にその日の出来事自体を沈静化させるというレベルではなくて、そのあともずっと旅されて、何度も訪問されている。単にかたちだけではないものが目に見える。
――行動で示していらっしゃる。
そうです。あと、お歌ですね。それも和歌ではなくて「琉歌」。琉球の歌にのせた歌も詠まれている。沖縄に関しては、東京の中央政府との戦前から続いてきた様々な出来事を十分に踏まえた上で、「今、天皇として何を為すべきか」ということをされていることを強く思います。戦地の慰霊も、筋を通すかたちでされてきた。これはとても重要だと思います。
30年間一貫していた被災地への慰霊やお見舞い
――それから被災地ですよね。この「平成30年間」の両陛下の旅の軌跡は、そのまま「日本の天災30年史」でもある。よくもまあ毎年、かくも多様な天変地異が起きたものだと思います。
そうですよね。「平成」という元号とは裏腹です。台風、地震、洪水。雲仙普賢岳の噴火、阪神・淡路大震災、中越地震などに象徴されますが、その時に示された慰霊、お見舞いのスタイルを30年間、一貫してこられた。その最たるものとして、2011年の東日本大震災。この時に際しては、ほぼ毎週のお見舞いだけではなく、ビデオメッセージを出されました。
――震災発生5日後の3月16日、天皇陛下の「おことば」が発表されました。自らビデオメッセージとして「おことば」を述べるのは史上初めて。竹内さんは本にこう記していらっしゃいますね。「その日、放送が予告されるや、さざ波のように国民に周知されていくさまは、昭和天皇による終戦の玉音放送を彷彿とさせた」
あの時、私は関東にいたのですが、あのビデオメッセージが……、つまり「原子力災害が継続中である」ということを踏まえ、それをきちんと言葉にし、ああいったかたちで(述べられた)。憲法的にはギリギリのライン。ただ、国民の統合の象徴であるということを重く受け止め、メッセージを出したことは、被災地に足を運ばれたことと同時に強い。膝をつけてお見舞いというスタイルは平成から始めたわけではないのですが、それが改めて目に見えるかたちになった。平成の皇室。極めて大きい出来事だった。
――「平成の玉音放送」。未曽有の大災害を目のあたりにするなか、慄然とした当時の思いが蘇ってきました。息を整え、居ずまいを正し、冷静に向き合わなければという思い。
ええ、それはありましたね。心を鎮めたというか、あれはひじょうに大きな効果があり、今の両陛下の印象に繋がっています。報道されてこなかったご訪問も含め、災害時だけではなく、ずっと前からの積み重ねがあったんですね。それが、不幸なことではありますが震災などの災害を通じ、見えてきたということだと思います。
戦前は男性皇族が軍務につき、女性皇族が福利厚生分野を担いました。結核の予防、それから赤十字、そしてハンセン病施設もそうです。ハンセン病施設の訪問は皇室の明治以来の伝統として継続していましたが、今の両陛下は全部回られた。これも大きい。過去の皇族による慰問とは桁が違います。しかも元患者と同じ目線で、ということを貫いていらっしゃる。その真摯なご姿勢が、より明確になりました。
――平成が終わりますね。大転換期、この本を手にとる人は多いはずです。
両陛下のお近くのかたの証言でもなく、皇室番記者、皇室ジャーナリストでもない。はたまたゴシップでもない。どこへ行かれて何をされてきたのかを客観データでまとめた本って、意外とない気がします。両陛下だけをズーミングしただけではなく、その行事の背景などにも踏み込んだものは。
――両陛下の行幸啓の記録だけではなく、「皇室トリビア」的知識も盛り込まれ、立体的に「平成」について紐解いていける本ですよね。たとえば「御用邸」についてなど、初めて知ったことがいっぱいありました。それから、秘話もぎっしり。
たとえば御用邸なら、今は3か所ですが、どういう経緯でできたのか、昔はどのぐらいあったのか。御用邸のご滞在日数は、今と昔ではどう異なるのか。行幸啓の要である国体や植樹祭などの意外な経緯も知ることができます。戦後の話でしか語られないことが多いんですけれども、辿ってみると、明治以来、何らかの伏流水が流れている。そこまで語ったうえで、データや地図、ビジュアル、両陛下の表情などを紹介したのがこの本です。私は言ってみれば外部の人間。一般参賀で姿をお見かけしただけです。俯瞰したうえで、定点観測できる存在であるからこそ、見えてくる部分がある、そう自負しています。