メキシコには「死者の日」という“祭り”がある。ピクサーのアニメ映画『リメンバー・ミー』で、その存在を知った人も多いと思うが、毎年11月1、2日、この世に戻ってきた故人の魂に、家族や友人らみんなで思いを馳せる風習をいう。日本で言えばお盆のような位置づけなのだが、これがとにかく底抜けに明るく楽しいものだった。
今年の死者の日、私は首都メキシコシティ郊外にあるミスキックという小さな街を訪れた。ガイドによると、かつてこの地域では、墓から故人の骨を掘り出し、骨を洗う習わしがあったそうで、今では死者の日の「聖地」となっているという。『リメンバー・ミー』の影響もあるのだろう。祭りの当日は、街のキャパシティをはるかに超えて、国内外から人が押し寄せていた。
静かに故人を思って…なんて雰囲気ではない。大人も子供も骸骨を模したメイクをしているし、飲食、衣服、おもちゃ、土産物とあらゆる屋台が狭い道の両側に立ち並ぶ。故人が眠る墓は、大量に供えられたマリーゴールドの花が甘い匂いを放ち、お供え物でド派手に飾り付けされている。墓の周りに家族や友人たちが集まり、思い思いに写真を撮ったり、思い出話に花を咲かせたり。オフレンダという死者を弔う祭壇も、食べ物や花で綺麗にカラフルに埋め尽くされて、見ているだけで楽しかった。死生観が変わった、というと大袈裟かもしれないが、メキシコの人にとって、「死」は忌むべき不吉なものというよりも、もっとずっと身近なものらしいと肌で感じた。
そんなミスキックでぼんやり思い出したのは、今年2月に亡くなった祖父のことだった。記憶にある限り、私にとっては初めての身内の死。私の書いた記事をスクラップしてくれていたなぁとか、アイスコーヒーを本当に美味しそうに飲んでいたなぁとか、耳掃除をしてあげたらこっそり小遣いをくれたなぁとか、クククって笑う優しい人だったなぁとか、そんな些細なことを思い出しては、心がキュッとなって、寂しさを感じていたのだけれど。あの世でもこんな感じで明るく楽しく過ごせていたらいいなぁ。
滝口悠生の『死んでいない者』(文藝春秋)という小説は、とある家族の「葬式の日」を淡々と描いている。数え切れないほど登場人物がたくさん出てきて、語り手や視点がコロコロと切り替わるのだが、するする読み進めることができて、誰かにとっての「葬式」や「故人」、「生」や「死」が立体的に浮かび上がる。不思議とそこに湿っぽさはない。「死んでいない者」たちの日常や心情がひたすら綴られている。
人の死に際し、自分の死や死んだ祖先たちのことに思いが向くのはきっと自然なことだ。親の親のそのまた親の代があり、そこから自分に至るまでのどこが欠けても自分はいないというこのことは、家系図や言葉ではわかっていても、そうして誰かが死んだ時にしか真に迫ってこない。あるいは誰かが生まれた時にしか。(8ページ)
だよねえ。でもメキシコではお葬式はお祭りなんだってダニエルが言うの。(53ページ)
もうすぐ祖父の一周忌だ。ミスキックの旅のこと、『死んでいない者』を読んだこと。話したいことがたくさんある。