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歴史の実験 社会の差異比べ世界史を遠望

スイス・ジュネーブ滞在中の柳田國男=1922年10月、成城大学民俗学研究所提供

 

 私は以前に、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』や『文明崩壊』(草思社文庫・上・下各1296円)を読んで、その視野の広さ、着眼の奇抜さに驚嘆した覚えがある。しかし、それが一つの方法によって貫かれていることに気づかなかった。それを悟ったのは、彼が中心となって編んだ『歴史は実験できるのか』(慶応義塾大学出版会・3024円)という本を、書評にとりあげたときである。「歴史は実験できるのか」というのは邦題で、原題は「歴史の自然実験」である。むろん、実験は可能である。ただし、それは実験室での操作的実験のようなものではない。自然実験とは、多くの面で似ていてその一部が顕著に異なるような複数のシステムを、比較することによって、その違いが及ぼす影響を探究する方法である。

なぜ王国が誕生

 たとえば、太平洋のポリネシア諸島の社会は、トンガやサモアにいた人々(元々は東南アジアから渡来した)が、紀元1000年頃に、周辺の島に移動を開始し、最果ての地、ハワイまで進出したことによって形成された。そのことは、彼らの言語がさまざまに変容しつつもポリネシア祖語にもとづいていることからも明らかである。また、この間、外部からの影響がなかった。にもかかわらず、これらの諸島の間には、社会的組織の点で著しい差異が生じた。たとえば、ハワイでは各島に王国が生まれたのに、他の島々の多くは小規模な首長制社会である。では、なぜ、いかにして、そのような差異が生じたのか。それらの島を比較考察し、世界史において、政治社会的組織の変異がいかに生じたかを見ようとする。それが「歴史の自然実験」である。
 この考えを知ったとき、私にとって積年の疑問が氷解した。それは、柳田國男の「実験の史学」という論考(1935年)に関するものである。日本列島では、言葉や慣習は中央から波紋のように広がって分布した。中央で消滅しても辺境では残る、ゆえに、南北ないし東西に離れた辺境の言葉や慣習が一致する場合、それが古層であるとみてよい。その意味で、日本列島は「実験の史学」に最も適した場である、と柳田は考えた。私が気づいたのは、柳田がこのとき提唱したのが、まさに「歴史の自然実験」だったということである。

先行者柳田國男

 ダイアモンドは1960年代に生物学者としてニューギニア島でフィールドワークをして以来、定期的に訪れ、いわばそこを定点観測の場として、世界史を通観するにいたった。柳田はその先行者であったといえる。彼がそのような考えを得たのは、1921年に国際連盟委員としてジュネーブに滞在し、太平洋の島々の「委任統治」という仕事に取り組んだときである。彼がそれを引き受けたのは、もともと太平洋の島々に関心をもっていたからだ。そして、その比較考察を通して世界史を見直すことを考えていた。この場合、日本列島は太平洋諸島の北端に位置づけられる。柳田はのちに自らの仕事を「新国学」と呼んだが、それはローカルなものではない。それを通して世界史を遠望するものであった。
 最後に付け加えておくと、柳田のいう「実験の史学」には、社会を変革する企てが含まれている。1920年代は、第一次大戦の結果として、ロシア革命と国際連盟という世界史的「実験」がおこなわれた時代である。柳田はジュネーブから帰国後、吉野作造とともに、普通選挙実現のための運動の先頭に立った。それが大正デモクラシーと呼ばれている。そのあとに、彼は『明治大正史 世相篇』を書いた。これも長期的なスパンでしか見えない社会史を見る、「実験の史学」だといってよい。=朝日新聞2019年1月12日掲載