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「犬を愛した男」 トロツキーと暗殺者 真実は!? 朝日新聞書評から

評者: 西崎文子 / 朝⽇新聞掲載:2019年06月22日
犬を愛した男 (フィクションのエル・ドラード) 著者:レオナルド・パドゥーラ 出版社:水声社 ジャンル:欧米の小説・文学

価格:4320円
ISBN: 9784801002692
発売⽇: 2019/04/15
サイズ: 20cm/674p

1977年のハバナ、獣医学雑誌の校正の仕事に身をやつしている物書きのイバンは、ボルゾイ犬を連れて散歩する男と出会う。犬の話題で親密になる2人。やがて男は彼のみぞ知る〈トロ…

犬を愛した男 [著]レオナルド・パドゥーラ

 ロシア革命の立役者の一人トロツキーが、スターリンによって反革命の烙印を押され、国外追放となったのは1929年。彼がメキシコで暗殺されたのは40年だった。その間、亡命先を転々とするトロツキーとその家族は、スターリンの執拗な攻撃にさらされる。
 暗殺から37年後の77年、作品を反革命的だと批判され筆を折っていた若いキューバ人作家イバンは、ハバナの海辺でボルゾイ犬2頭を連れた謎の男に出会う。この「犬を愛した男」を通じて、彼はトロツキー暗殺の実行犯であるスペインの若者、ラモン・メルカデールの生い立ちを知ることになる。
 本書は、トロツキー暗殺に至る息詰まる歴史の展開を、トロツキーとラモン、イバンの視点を織り交ぜて語る長大な物語である。トロツキーは、レーニン死後の権力闘争に勝利したスターリンが、「階級敵」を倒しながら権力を固めるのを外国で見続ける他なかった。自分が殺されずにいるのは、反革命の権化としてスターリンの政敵弾圧に利用するためであり、不要となれば直ちに暗殺されるだろう。亡命先での執筆活動は、この暗い確信の上に成り立っていた。
 他方、犬とカタルーニャとを愛するラモンは、スペイン内戦で共和国側に従軍する中で、社会主義のためにすべてを捨てると誓ったために、共産党の工作員に仕立て上げられていく。実名を捨て、徹底的に鍛えられた彼は、ついにトロツキー暗殺の任務を全うする。しかしその数日前、自分の偽名で虚偽の告白文が書かれるのを見た彼は、自分を支える真実が何一つないことに愕然とし、暗殺者として生きる恐怖に慄くのだった。
 この物語を現代へとつなげるのがイバンの存在だ。革命後のキューバで生きてきたイバンにとって、トロツキー暗殺をめぐる顛末は、「かつて人間が掴みかけた最大のユートピアがいかにして失墜したか」を示す驚くべき事実だった。彼をさらに動揺させるのは、暗殺者、つまり「犬を愛した男」の行動に吐き気を覚えながらも、名前も過去も奪われた上に、最後は死に至らしめられる彼への同情を禁じ得ないことだ。この題材をもとに執筆意欲を見いだしたのもつかの間、時代の重みを背追い込んだ彼は絶望に陥ってしまう。
 陰鬱な結末だが、ここで光を放つのは著者自身であろう。海外に移住する作家も多い中、パドゥーラはキューバにとどまり、多くの作品を出版し続けている。「トルストイは歴史に打ちのめされたが屈しはしなかった」とは本書の中のトロツキーの言葉だが、この言葉、そしてこの作品は、恐怖が蔓延し、同情が疎まれ、真実が軽蔑される社会でもがく人々に対して確かな励ましを与えている。
    ◇
 Leonardo Padura 1955年、キューバのマンティージャ生まれ。雑誌や新聞の編集を経て作家に。探偵小説「マリオ・コンデ警部」シリーズで知られる。本書は国内外でベストセラーになった。