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「もう一人の彼女 李香蘭/山口淑子/シャーリー・ヤマグチ」書評 時を超えて浮遊する神話を開く

評者: 間宮陽介 / 朝⽇新聞掲載:2019年06月29日
もう一人の彼女 李香蘭/山口淑子/シャーリー・ヤマグチ 著者:川崎賢子 出版社:岩波書店 ジャンル:伝記

ISBN: 9784000253246
発売⽇: 2019/03/27
サイズ: 20cm/249,2p

もう一人の彼女 李香蘭/山口淑子/シャーリー・ヤマグチ [著]川崎賢子

 李香蘭という名は、父の友人である中国人養父がつけた名前である。旧満州に生まれ母語と変わらない中国語を喋る彼女を日本人だと怪しむ人はほとんどいなかったらしい。そのため敗戦直後、漢奸裁判にかけられるが、土壇場で、日本人山口淑子の証しを得て帰国の途につく。このあたりは彼女の自伝(藤原作弥との共著)のクライマックスをなしている。
 李香蘭から山口淑子へ。一身にして二生を経た彼女の人生は、戦中と戦後の二つの時代を生きた女性の物語として神話化され、たびたびドラマ化もされた。
 自伝が脚色抜きに等身大の自分を描いていることには、本書の著者も疑問を挟んでいない。しかし李香蘭には、等身大の李香蘭を離れて存在するもう一人の彼女がいる。いわばカギ括弧つきの「李香蘭」である。
 日本の国策映画会社(満映)は、看板女優李香蘭が日本人であることを隠さなければならない。その素性が明るみに出ると、国を超えた男女の恋物語はあからさまなヤラセ映画になる。一方、彼女が中国人なら、日本人に恋するヒロインは、中国人観衆にとって耐え難い屈辱となろう。日本人でも中国人でもない宙吊りの存在、それがもう一人の彼女、「李香蘭」である。
 このような「李香蘭」は李香蘭が山口淑子に戻っても、消滅するとは限らない。戦後ハリウッドに進出し、最初に演じたのは戦争花嫁の日本人役であった。芸名シャーリー・ヤマグチは名においてもその役柄においても、かつての李香蘭(リイ・シャンラン)の韻を踏んでいるのである。
 「もう一人の彼女」を論じることは、自己完結した人間李香蘭の神話を外に向けて開くことである。それは、体を離れて浮遊する「李香蘭」という記号を分析する試みだといってもいい。本書は「二人の彼女」が出会うところに生まれた作品、自伝が語りえなかったことを語ろうとする学術的労作である。
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 かわさき・けんこ 文芸評論家。立教大特任教授。著書に『少女日和』『彼等の昭和』『宝塚』など。