脳研究者の池谷(いけがや)裕二さんに最初にお会いしたのは、彼がまだ30歳手前、東大で助手(現在の助教職)になってほどなくの頃だった。今から20年前のことだ。
きっかけは、彼が所属していた研究室のサイトに上げていた脳についての解説ページ。当時は研究室のサイト自体が珍しく、あっても専門用語で埋め尽くされたお堅いものばかりだった。それが門外漢でも分かるよう、巧みな文章でやさしく綴(つづ)られている。「これだ」と思い、すぐに執筆依頼に向かった。
とはいえその頃はまだ、研究者は研究をするのが本分、という金科玉条の下、一般向けの本をお願いしても断られることが多かった。ましてや若手が書くなどと言い出せば、「そんな暇があるなら論文を書きなさい」と指導教官に怒られる、という話もよく耳にした。しかし、そんな悪条件をくぐり抜け、池谷さんは執筆を快諾、無事原稿は完成した。記憶を司(つかさど)る海馬という脳部位を中心に、その仕組みを解き明かす正統派の科学書にもかかわらず、本作は20万部を超えるベストセラーとなった。その後も脳科学をテーマに数々の話題作を生み出すこととなる彼のデビュー作だ。
今では、一般の人たちに科学を伝えるアウトリーチ活動も、研究者の仕事の一部と位置づけられるようになった。おかげで執筆依頼を無下(むげ)に断られることは少なくなった。当時のことを振り返ると、時代は変わったなぁと思う。=朝日新聞2020年1月8日掲載