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「ザリガニの鳴くところ」書評 作家・柴崎友香さん 一人の少女のサバイバル、読書で体感する意味

文:柴崎友香

 アメリカ南東部の湿地を貫く高速道路を走るバスに乗ったことがある。どこまでも続く水と森が入り交じった広大な場所に、人間が作ってきた町とは違う時間や営みがあることは、外から見ただけでも身に迫ってきた。

 その湿地の奥で一人で生きてきた少女がこの小説の主人公だ。一九五〇年代、まだ学校にも行かない年齢で家族が次々と去り、最後に残っていた暴力をふるう父親も彼女を置き去りにする。「貧乏人」が世間から隠れるように住む湿地の奥で、カイアという呼び名だけで本名すら当初はわからない。母から教わったわずかな家事の知恵を頼りに生き抜く生活は激しく孤独で痛ましく、その絶望が伝わってくる描写が、何度も苦しかった。

 まだ差別が厳しかった当時に助けてくれた黒人の夫婦がいるものの、町の人たちは彼女を迫害する。自然を頼りに動物や植物と対話しながら生きる少女は、兄の友人だった少年に文字を教わる。言葉を知り、本を読み、世界を知っていく過程には胸を打たれた。一つ一つ、自分の体で経験し、それを言葉で表すことを知った彼女は、誰よりも湿地の自然を理解するのだ。

 子供は誰かに保護されるべきで、教育を受けるべきだという作者の信念を、読みながら感じた。それと同時に、どんな境遇にあっても自分自身の力で人生を切り拓いていくことができるのだという意志が書かれてもいる。

 人とうまく関わることのできない彼女は、恋愛もするが残酷に裏切られもする。その過程で、よりどころになるのは言葉だ。自分を安らかにしてくれる唯一のものである自然への思いや孤独に共鳴する詩が、小説のあちこちに引用される。「詩の言葉は、口で語るよりもずっと多くのことを表せる」と言葉を教えてくれた少年は言う。その通りに、詩はこの小説を支えるものでもある。

 湿地で見つかった死体を巡って、後半は一気にサスペンスになる。大人になった彼女を助けようとする人が現れることに安堵もする。

 しかし、最後にある秘密が明かされたとき、わたしは今までに経験したことのない種類の感情を持った。いわゆるどんでん返しの驚きとはまた別の、生々しい衝撃だった。一人の少女の凄まじいサバイバルが描かれ、それを読むことで体感したことの意味を、突きつけられた。そこまではわたしは少し油断していたのかもしれない。

 人は、他人を、特に自分と関わりの深くない人を安易にラベリングし、都合のいいように片付けてしまう。それだけでなく、周りで起こる出来事や事件にも慣れて鈍くなることで、自分の考えや暮らしを守ろうとしているのかもしれない。つまりは、できごとも、人間のことも、だいたいこんなもんだろうと見くびっている。だからこそ、過酷すぎる境遇を生き抜いてきた一人の女性の、存在そのものに圧倒された。

>柴崎友香さんの連載エッセー「季節の地図」はこちら