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川越宗一さんが吉本新喜劇を見ながら食べていた「日清焼そば」 懐かしいようで懐かしくないおいしさ

 子供のころ、土日の昼食はインスタントの袋麺であることが多かった。作ってくれる母は料理好きで栄養も気にするほうだったが、いっぽうで合理的な面もあり、なにかと忙しい昼どき、簡便なインスタント麺にずいぶん助けられているようだった。

 袋麺は当時からいろいろな種類があったが、「日清焼そば」が好きだった。当時、土曜日はまだ半休で、学校から帰ったぼくは吉本新喜劇のテレビ中継を観ながら焼きそばをすすっていた。日曜日なら午前をぼんやり過ごし、十二時から始まるルパン三世の再放送を観ながら焼きそばの完成を楽しみにしていた。

 そのためか、歳だけはいい大人になった今も、日清焼そばはよく食べる。よく食べるのだけど、その味わいは懐かしいようで懐かしくない。「こんな感じだったけど、こんな感じだっただろうか?」と毎度、戸惑ってしまう。メーカー側のほうで製法を変えたのか、あるいは、ぼくのほうで感覚が変わったのか。

 ところでぼくは、焼肉という料理が好きだ。そのきっかけは疑いなく、子供時代の外食の定番だったからだ。近所のKR園、マイカーで出かけたFM園、価格帯がやや高めのT亭。家族で利用するお店は、父の人生の進展にあわせて変わっていったが、どのお店もおいしかった。

 あれから三十年ほど経った現在も、FM園とT亭はたまに利用している(KR園はもうない)。ただその味わいは、やはり懐かしいようで懐かしくない。子供のころの記憶と照合するたび首をひねる。なんにせよおいしいからよいのだけれど、レシピとぼくと、どちらが変わったのだろうか。

 むかし愛読した小説の読み味がかわったり、ノリの良さが好きだったはずのヒット曲の歌詞がみょうに沁みたり、と年齢を重ねると感じ方が変わることは、よくある。そういう変化がぼくのほうにあったのかもしれない。

 ただ、自分の記憶も完璧にはほど遠い。ことにぼくの場合は忘却による欠損が少なくないし、欠けた個所は空想が勝手に埋めていることもある。自分の証明写真に「このくたびれた男は誰だ」と憤るような自意識も、記憶を歪める外力となる。そんな不確かな記憶なるものと照合される食べ物のほうも、たまったものではないだろう。

 そういえば、ぼくの体は人並みに新陳代謝をしている。聞くところによると、人体を構成している物質は数か月ですっかり入れ替わってしまうという。大袈裟に言えば宇宙を循環する物質やエネルギーの、その流れの片隅で生まれたかりそめの淀みが、ぼくだ。不確かな何かを、数か月ですっかり新しくなる(ついでに加齢でくたびれる)外形に突っ込んだものが、ぼくだ。

 だからぼくは小説を書いている、儚く不確かな身であるゆえに永遠に思い焦がれるのだ、などと思えれば美しかろうが、そんなつもりはまったくない。いま小説を書くようになったのは気まぐれと運、あるいは淀みが流れにあわせて形を変えたものでしかない。

 ただ、日清焼そばを湯がきながら、締め切りまでの日数を指折り考えてしまうくらいには、小説はぼくの生活を浸食している。そして曖昧な記憶と照合して戸惑いながら食べ終えたあとにはだいたい、小説を書いている。