138億年の進化の歩みを一冊に
―― 帯に「世界一やさしい進化のはなし」とある通り、宇宙のはじまりから今日に至るまでを、とてもコンパクトに、わかりやすくまとめた絵本です。原書『How did I get here?』を最初に読んだとき、どんな印象を持たれましたか。
ポップでカラフルで、かわいらしい絵本だな、というのが第一印象です。でもそれ以上に、138億年という長い年月がわずか32ページで描かれていることに驚きました。さまざまな説明を極力省いて、ざっくりと紹介しているんですが、しっかり事実に基づいて描かれていることはわかりました。その「ざっくりだけどしっかり」に日本語でどのように寄り添っていけばいいのか、というところに難しさを感じましたね。
小さい子どもにもわかるような言葉で書かれていますが、間違いなく訳すためには、訳者である私自身がこの進化の歩みを理解しなければいけないと思って、宇宙創生や生命の歴史にまつわる本を必死に読みました。1ページで何億年も進むような流れで描かれているので、参考にと買った本1冊分の内容が、絵本ではたったの1ページ分、なんてこともありましたが、自分自身、学びながら翻訳に取り組んでいった感じです。
―― 具体的に、訳すのに苦労したのはどのあたりですか。
ビッグバンのあと、「宇宙のもとになる つぶが うまれた」と訳したのですが、その「つぶ」にあたる部分ですね。原書では「bits」と書かれています。要するに、今の原子や分子のもとになる、中性子や陽子、電子といったものが飛び出して、それが宇宙のもとになっているんだよ、という話なんですが、この「bits」をどう訳すか、かなり悩みました。
直訳すると「かけら」ですが、「かけら」には、大きなものが破損した断片のようなイメージがあります。でもここは、まだ何もないところから最初に生まれた「bits」なので、「かけら」はちょっと違う。ただ「粒」以外でどう訳すかと考えると、粒子とか陽子、中性子といった難しい言葉になってしまうんですね。それは無理だろうということで、平仮名で「つぶ」としました。文章の中で埋もれてしまわないように、傍点をつけて「つぶ」。はじめはすべての「つぶ」に傍点をつけていたんですが、つぶつぶだらけでうるさくなってしまうので、傍点は最初の「つぶ」だけに留めました。
原書のユーモアをすくいとって
―― 国立科学博物館の北山太樹博士が監修を担当されました。どんなアドバイスがあったのでしょうか。
北山先生とは、2020年2月末に国立科学博物館で初めてお目にかかって、打ち合わせをさせていただきました。最初の訳を見ていただくのと、いくつか不安なところを相談するつもりで伺ったのですが、北山先生は全体を貫くテーマや科学的な側面だけでなく、著者があちらこちらに組み込んだちょっとしたジョークまでしっかり読み込んでくださっていて。むしろそのジョークの方により情熱を込めていらっしゃったのでは(笑)。
たとえば、太陽系の惑星が描かれたページで、原書では地球のところに“Home sweet home”と書かれているんですね。これは、日本では「埴生の宿」として親しまれた古い歌のタイトルです。その前のページの「きみはぼくの太陽(You are my sunshine)」も、1940年代に流行ったカントリーソングをもとにしていると思われます。北山先生は、こういったこと一つひとつを面白がられていて。他にも、「お目にかかれてうれしいわ(Nice to see you,dear)」という古代魚のセリフは、進化の過程で目を獲得したことと挨拶とのダブルミーニングだろうと、北山先生から教えていただきました。
すべてを日本語訳に反映させるのは難しく、“Home sweet home”は平凡に「みんなの地球」と訳しましたが、そういった面白さをすくいとっていくことで、この絵本全体がすごく生き生きしたという実感があるので、北山先生の読み方は正しかったんだと思います。北山先生は巻末のメッセージで、この絵本について「近所にすむ物知りなおじさんがわかりやすく、しかもユーモアたっぷりに語ってくれるようなスタイルで展開する現代版創世記」と表現されているのですが、日本語版でもその味わいをしっかり出せたのは、北山先生の情熱に負うところが大きいと感じています。
―― 科学的な部分については何か指摘がありましたか。
もちろん、本筋のサイエンスにまつわるアドバイスもたくさんいただきました。特に大きかったのは、進化についての説明の部分ですね。「なんどもなんども 細胞分裂をしたり 子どもをつくったりするうちに、おばあさんの子孫(きみの祖先)は すこしずつ すがたが変化し、大昔の地球の あたたかい海に なじんでいった」という文を、私は最初「大昔の地球の あたたかい海になじむために 少しずつ すがたを変えていった」という風に訳してしまっていたんです。
でもこれだと、あたたかい海になじむという目的のために変化したように受け取れますよね。それは進化についての誤解だと。何か目的を持って、意図的に変わっていくことが進化ではなくて、ランダムな変化が起こった中から、偶然その環境に合った個体が生き残って、それが積み重なって少しずつ変化していくのが進化なんだ、と北山先生からご指摘いただきました。変化に対応できたものだけが生き残れる、という考え方は、弱肉強食の論理や優生思想にもつながりかねない、と北山先生は危惧していらっしゃったようです。なるほど、それは本当にそうだと思って、訳を改めました。
「人間は星のかけら」を実感
―― 対象年齢としてはどのくらいを想定されましたか。
ひとりで読むなら小学校低学年から、読み聞かせてもらうなら4、5歳からだと思います。対象年齢によって使える言葉や漢字も変わってくるので、どの言葉ならOKか、漢字はどこまで使うか、といったことをそのつど試行錯誤しながら翻訳を進めていきました。
でも、うんと小さい子でも、科学モノに興味を示す子というのは一定数いるんですね。さすがに素粒子とか中性子といった言葉は使えませんが、地球、生命、進化といった言葉は、その時点では理解できていなくても、ちゃんと受け止めて、どこかに貯めこんでおいてくれると思います。そんな信頼感をもって訳していきました。
―― 書店だけでなく博物館内のショップなどにも置かれて、好評のようですね。
科学への入門書として評価されているようで、うれしいですね。幼稚園ぐらいのお子さんも、すごく興味を持って面白がってくれているようです。大人の方々にとっては、びっくりするほどの新しい情報はありませんが、ビッグバンのときの「つぶ」が、巡り巡って今の自分の体を作っているんだ、ということだけでも感動しますし、もっと素朴に、今の自分が存在するためには138億年が必要だった、という長い視点に立ってみるのもいいのではないかと。宇宙物理学者のカール・セーガンさんが「人間は星のかけらなんだ」とおっしゃっていたそうですが、それを実感できるお話になっていると思います。
北山先生が立案された、国立科学博物館の常設展示「地球史ナビゲーター」も、この絵本と同じコンセプトで作られているんです。男の子の体がじつは粒子でできているんだよ、というところから始まって、その粒子がどうやって生まれ、どんな風に進化していったのかを、アニメーションで見せてくれる展示です。この絵本に興味を持った子ならきっと楽しめるはずなので、国立科学博物館にもぜひ行ってみてください。
―― ないとうさんは小学生向けの児童書の翻訳を多く手がけていらっしゃいますが、絵本の翻訳についてはどのように感じてらっしゃいますか。
じつは絵本の翻訳は『ぼく、もうなかないよ』以来、2作目でした。大人向けのノンフィクションの翻訳もしていて、ちょうど『きみは どこから やってきた?』を訳し始める前に、『〈ホームズ〉から〈シャーロック〉へ 偶像を作り出した人々の物語』という分厚いノンフィクションを友人との共訳で手がけていたんです。調べものなどがとても大変でしたが、大人向けの本の場合、自分の持っているボキャブラリーを100%生かして訳せるのがいいですね。小学生向けだと7割ぐらいですが、この絵本ぐらいになるともっとセーブしないといけないので、別の種類の難しさがあります。
翻訳と一口に言っても、作品や対象となる読者によって、そのやり方はかなり変わってくると思います。大人向けの純文学の翻訳では、作家の文体をそのままに訳すことが大事で、勝手に手を加えるなんてもってのほかだと思うんですが、子どもの本の翻訳では、作者の言いたかったことをわかりやすく伝えるために、文章を少し足したり、日本語としてわかりやすい順序に変えたりといったことはあります。加えて絵本の場合は、絵も読み解く必要がありますし、絵と文章のコンビネーションで深まっていくところがあるので、さらに難しい気がしますね。でもその分やりがいもあるので、今後もチャレンジしていきたいです。