新型コロナ禍が収まる気配のないまま一年が終わりつつある。移動の自由もままならない年だった。せめて想像力を自由に飛翔(ひしょう)させた素晴らしい作品に出会いたいものだと思っていたら……。
アンナ・バーンズの『ミルクマン』(栩木〈とちぎ〉玲子訳、河出書房新社)は、英語圏の文学賞の最高峰とされるブッカー賞の二〇一八年受賞作品。
十八歳の少女の「私」によって語られるこの物語の舞台ははっきりと示されないが、境界線に引き裂かれた非常に複雑な政治状況に置かれた土地であることだけはわかる。
「海の向こう側」あるいは「境界の向こう側」にある「国」が、彼女たちの土地を支配しており、その権力に対して「反体制派」が武装闘争を繰り広げている。自動車に仕掛けられた爆弾に民間人が巻き込まれたり、反体制派の活動家が警察に狙撃されたり、血塗られた暴力が蔓延(まんえん)している。しかも国は盗撮、盗聴、密告とあらゆる手段を通じて、彼女たちの生活を監視している。
ある日、「ミルクマン」と呼ばれる反体制派の大物にストーカーされるところから、「私」の生活の歯車が狂い始める……。
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状況が状況だけにきわめてシリアスで悲劇的な展開を予想しつつ読んでいると、どうも様子が異なる。
「私」にも、ほとんどの登場人物にも固有名が与えられない。彼女にいやがらせをする〈義兄その1〉に、極端な運動好きの〈義兄その3〉。恋人は〈メイビーBF〉(もしかしてボーイフレンド)で、彼女を毒殺しようとするのは〈毒盛りガール〉。「ミルクマン」とは別に、「本物のミルクマン」すら登場する。
厳しく監視され、テロに曝(さら)された危険な世界なのに、地域住民、とりわけ女たちの関心事は、「私」が大立者で既婚者らしいミルクマンと付きあっているかどうかなのだ。
二人が深い仲になっていると〈噂(うわさ)〉が一人歩き、いや暴走し始める。誤解を解こうとする「私」の試みはことごとく裏目に出て、「私」は周囲から文字通り「浮き」まくり、歩きながら読書するという彼女の趣味すら危険な異常行為として糾弾されるのだ。もうこのあたりになると読みながら何度も噴き出した。
作者の出身地と作品の記述から、おそらく北アイルランド紛争が背景にあるとは想像できる。しかしこの作品のすごさは、どんな紛争地にもきわめて凡庸な日常があり、そこで生きる人間は、僕たちと同じくらい俗っぽく愚かであるという普遍的な真実を、想像力(妄想?)爆裂気味の少女の必死な語りを通して体感させてくれることだ。
新型コロナの感染が広がり出したころ、ペストを扱ったカミュやデフォーの小説が話題になった(僕自身も時評で触れた)が、僕たちの行動や思考の自由を奪い、僕たちを〈現実〉から遠ざけ、惑わすのは、実はウイルスやロックアウトなどではなく、噂や臆測など根拠のない言葉なのではないかと思わされる。
深刻な主題を生真面目に語りながら、どんどん笑いに横滑りしていく〈語り〉を実現した作家には脱帽するばかりだが、とにかく訳文が素晴らしい。途中から「私」に直接脳内で語りかけられているような錯覚に陥った(僕の妄想?)。
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エリザベス・ストラウト『オリーヴ・キタリッジ、ふたたび』(小川高義訳、早川書房)は、『オリーヴ・キタリッジの生活』(同)の続編にあたる連作短篇(たんぺん)集だ。
前作同様、元中学の数学教師の女性オリーヴを中心にアメリカのメイン州の海辺の小さな町に暮らす人々の人生の断片が切り取られる。
夫に先立たれ、七十代になったオリーヴに再び恋が訪れる。一つ年上の元大学教師ジャックと再婚する。
やはり再婚のジャックはスネに傷を持つ。いやそれを言えば、オリーヴを含め、登場人物のすべてが家庭に問題を抱えている。親子やきょうだい間のすれちがい、嫁姑(しゅうとめ)の軋轢(あつれき)、DV、性暴力、老い……。その悩みや苦しみは、驚くほど僕たちのものと似ている。彼らは僕たちなのだ。
オリーヴはジャックに先立たれ、心臓発作も転倒も経験し、ついに介護施設に入る。紙オムツが必要になるし、プライドが邪魔して周囲にすんなり溶け込めない。
人生の黄昏(たそがれ)。しかし秋の光に包まれた海と町の風景は息をのむほど美しい。その光が人間の真実も照らし出す。「人間はそもそもさびしい。そのことを軽く考えてはいけない」=朝日新聞2020年12月30日掲載