大澤真幸が読む
エドゥアール・グリッサンは、カリブ海マルティニク出身の作家・思想家。マルティニク島は、いまだに残るフランスの海外植民地だ。『〈関係〉の詩学』は、グリッサンが1990年に出した評論集である。
彼が目指したことは、人間の普遍的解放である。と、結論に一挙に飛びつくと、この作家の思想の肝心な部分をとり逃す。
人間解放というならば、マルティニクの宗主国フランスこそ、人権宣言の国ではないか。しかしこの宣言には欺瞞(ぎまん)がある。人権は人間一般の権利を指しているようで、実質的には西洋人の権利しか念頭に置いていないからだ。その証拠に、フランス革命後に奴隷制が復活し、植民地支配は今も続いている。
この欺瞞的な人間概念に対抗しようとするとき、並の思想家なら黒人解放を主張する。この場合黒人奴隷のルーツであるアフリカが拠(よ)り所(どころ)となる。しかしこれでは、西洋に偏った人間概念に、別の特殊性(アフリカ系)を対置しているだけで、前者の偽の普遍性を克服できない。
「黒人」の代わりに、グリッサンは〈関係〉という概念を提起する。抽象的な概念に思われるかもしれないが、具体的なイメージをもつ。例えば本書の冒頭のエッセーで語られる奴隷船(黒人奴隷を詰め込んでアメリカに運んだ船)は、〈関係〉のあり方の一つだ。
奴隷船というイメージは、特定の地にルーツを求めることを拒否している。それは起源をもたない。ゆえに〈関係〉は、あらゆるパースペクティヴ(視点)から語られた歴史、想像的なものを含むすべての歴史を孕(はら)みうる媒体である。グリッサンに「過去の予言的ヴィジョン」という表現がある。過去を任意の未来を孕んだものとして見ることだ。
〈関係〉は、すべてに開かれた普遍的なアイデンティティーを――いやアイデンティティーの欠如を――肯定している。この概念は、後に〈全(トゥ)―世界(モンド)〉という概念へと発展していく。それは、〈全―世界〉を包摂する真の普遍性だからだ。=朝日新聞2021年2月6日掲載