ISBN: 9784815810146
発売⽇: 2021/02/02
サイズ: 22cm/229,7p
「NO NUKES」 [著]ミツヨ・ワダ・マルシアーノ
かつてエリック・バーナウはドキュメンタリー映画を、「外側」の表現と呼んだことがある。映画の「撮影所という制度」の外、そして報道という「ニュースの制度」の外で「王様は裸だ」と叫ぶ子どものようだ、というのである。
本書はこの「外側」を3・11東日本大震災後の日本に新たに見いだそうと挑戦した映画史家の、気合の入った論集である。
両大戦間期の日本映画モダニズム研究から出発した著者は、正統の系譜外の「周辺」に目を向けてきた。戦前から敗戦を経て「逆コース」の戦後におよぶ日本社会の歩みが、実は「逆」ではなく連続したものだったことを、森繁久彌らの「サラリーマン映画」で論じた仕事などはその一例だろう。
10年前、当時教鞭(きょうべん)をとっていたカナダの大学から京都に研究滞在した著者はそこで震災に遭遇、社会にあふれたマスメディア経由の「公的な」言説とそれ以外との落差にたじろぐ体験を心に刻む。以後折々の論文と書き下ろしをほぼ半々に編まれた本書は、震災以前に原発の「安全神話」に貢献したPR映画などの分析に始まり、3・11後に発表された現代アートにまで視野を広げて論じてゆく。
わけても本領がうかがわれるのが、原発問題や3・11後のドキュメンタリー映画の「わかりやすさ」が専門の映画批評などで評価されない状況に猛然と反論した第2章と第3章だろう。前者では3・11以前から反核映画を制作する鎌仲ひとみ作品を取り上げ、ナレーションや字幕や音楽を多用する手法から自主上映会などの作品流通までに注目する。
後者では3・11後の「脱原発訴訟」で知られる河合弘之弁護士が自身の「訴え」を広めるべく、映画にはずぶの素人の身で「監督」した3部作を素材に、原発行政のしくみをホワイトボードで解説する自称「河合塾」スタイルの撮影手法を分析する。
この30年ほどの間、ドキュメンタリー映画は多様な広がりの一方、日本でも「作家主義」の傾向を強めてきた。ナレーションも解説字幕もないフレデリック・ワイズマンの数時間もの大作が劇場を満席にするなど、美学的な作家表現は観客の認知も高い。しかしその陰で鎌仲・河合作品にみられる「わかりやすさ」は不当に冷遇されてきた。そう感じる著者は現代アートにも踏み込み、その「現実に対する批判力の決定的な欠落」をも指摘するのである。
研究者はとかく専門外の議論を忌避しがちだが、3・11以後、「いったい芸術に何ができるのか」を著者は広く真摯(しんし)に問う。そこに「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という言葉の残響を聴くのは筋違いだろうか。
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Mitsuyo Wada-Marciano 徳島市生まれ。カナダのカールトン大教授を経て京都大教授。著書に『デジタル時代の日本映画』『ニッポン・モダン』、編著に『「戦後」日本映画論』など。