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「ひきなみ」書評 一人でも手を取ってくれるなら

評者: 金原ひとみ / 朝⽇新聞掲載:2021年06月26日
ひきなみ 著者:千早 茜 出版社:KADOKAWA ジャンル:小説

ISBN: 9784041108550
発売⽇: 2021/04/30
サイズ: 20cm/261p

「ひきなみ」 [著]千早茜

 小学六年生の主人公、桑田葉が初めて一人で海を見るシーンで本書は始まる。東京から瀬戸内の島にある母方の実家に預けられた葉は、参加した寄り合いで、母に持たされた携帯を粗暴な男の子に取り上げられてしまう。男しか立ち入れない上座に逃げ込まれ、葉が泣き出しそうになっていると、突如、一人の女の子が下座と上座を貫くテーブルを駆け、男の子に蹴りと平手をくらわせる。男の子は「女にぶたれて泣くな!」と大人にどやされる。
 子供の頃から女も男も性別による抑圧にさらされている息苦しさが、ワンシーンで伝わってくる。そしてそれを軽々と乗り越えた、テーブルを走り携帯を取り返した真以という少女と葉は、少しずつ距離を縮めていく。だが中学一年のある日、真以は唐突に島から消えてしまう。
 第二部は約二十年後。飲料メーカーに勤める葉は上司からのハラスメントにより心身ともに限界を迎えているが、ひょんなことから真以の居場所を突き止め、再会を果たす。
 性別、会社、学歴、家族、個人からそれらを取っ払うことの難しさ、そして取っ払った上で自分を成り立たせることの難しさに、本書は迫っている。淘汰(とうた)されゆく幻想にしがみつくのは不毛だとして、では幻想なき世界で人は己の中にある何を信じられるのかという問いに、男女を問わず私たちは直面していると言える。しかし、助けを求めた時、手を取ってくれる人が一人でもいたとしたら、という不可測でありながら重大な救済が本書には描かれる。
 人は時に、「誰かの何気(なにげ)ない一言」で、自分以外誰も信じていない世界や価値を、信じ続けることができるのだ。その脆(もろ)く儚(はかな)い様には、あらゆる幻想を削(そ)ぎ落とした、本来的な人間らしさが籠(こも)っている。社会から、時代から突き落とされ、波間から手を伸ばす人々の小さな叫びと確かな実存が本書を貫き、読者は心を抉(えぐ)りつけられるだろう。
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ちはや・あかね 1979年生まれ。『魚神』で小説すばる新人賞、泉鏡花文学賞。『あとかた』で島清恋愛文学賞。