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土井善晴さん「くらしのための料理学」 料理は人間が健全に生きる土台、「一汁一菜」がつなぐ持続可能な循環

土井善晴さん=北原千恵美撮影

普通の暮らしにある家庭料理の美しさ

――土井さんは、まずフランス料理を学び、日本料理店での修行を経て、家庭料理の道へと進まれています。料理への向き合い方や料理観はどう変わっていきましたか?

 20歳でスイス、フランスに留学したころは、日本の家庭では和食が中心ですが、西洋料理も中華料理も食べていました。いざ料理の道を志すとなっても、フレンチやチャイニーズといった「〇〇料理」という限定した枠組みを持っていませんでした。私の周りにいた大人たちも、「料理」は一生勉強やと。だから、何から何まで学んで、身につけないといけないと思っていたんです。

 日本に帰ってきて、日本人なのに日本料理のことは何もできない、何もわからないっていうことを自覚しました。父から「漬物の盛り付けをしなさい」と言われても、どういう風に盛ればいいのか、わからない。できなかったんです。漬物を盛るにも、考えや手立ても何もなかった。盛り付けの良し悪しの基準が自分の中にないから、判断できないんですよ。

 その頃は、料理はとにかく技術と、手と身体がパッと動くことが一番重要だと思っていました。「手が動く」「包丁ができる」とか、そういう技術的なことばかりを大事やと思っていました。それと、自分一人になっても、やれるとは思えなかったです。まだ本当に大事なことはわかっていないし、精神的な自信が持てなかったんですね。でも、修行の身にある緊張感というか、気合いというか、それを、ひとりになっても失わず、真っ直ぐ立てると確信できるまでは、修行は終わらないと思っていました。

――料理人としての修行のさなかに、父である土井勝さんのもとで家庭料理を教育するという世界に入られますが、その時はどんな気持ちだったんでしょうか?

 最初はね、自分がなんで家庭料理をやらないといけないのかって思いましたね。その頃は料理人として頂点を目指していたし、仕事場が日本一の日本料理を意識しながらみんなが仕事をしていましたし、常に世界を見据えているというような環境でしたから。家庭料理というものを見下すようになっていたんです。今、思えば未熟だったと思います。

――そんな考え方が、京都の河井寛次郎記念館で民藝と出会って変わられたそうですね。

 フランス料理でも日本料理でも「美しい」ということが、私にとっての大事なテーマでした。どこにいても、「美しいものを見なさい」って教わりましたから。懐石料理は包丁の正確な切りだしをして、料理と器との調和を考えて作るものです。家庭料理を作っていても、包丁が一番大事やと思っていました。でもそれって、宮大工が作った家庭料理みたいというのが、いい例えかわかりませんが、きちっとしすぎていて、ぜんぜん美味しそうに見えないものなんです。だから、私の料理は、簡単なものでも、とても難しく見えたんです。

 家庭料理はもっとおおらかなもんですよね。やろうとしている方向や美しさの意味も違うのに、そこがわかっていなかったんです。自分が目指していた料理屋との料理の違いに悩んで、家庭料理に自分の一生をかけるものがあるのかって悩みました。

 そんな時に河井寛次郎記念館で、暮らしの中に生まれる美を見て、家庭料理は民藝だって、気づくのです。美を追いかけても逃げていくんだけど、一生懸命生活するところに、美しさが生まれてくるのです。柳宗悦の思想・民藝との出会いで、家庭料理というものを見直すわけです。

「料理には人間の土台をつくる要素がたくさん」

――家庭料理において土井さんが提唱する「一汁一菜」という考えは、どのようにして生まれたのでしょうか?

 料理人になる前、学生時代にW.A.プライスの『食生活と身体の退化』を読んで、食べるものが人間の体や精神、そして未来の子どもたちに対してどんなに大きな影響を与えるかということを知ったのが原点。だから、自分や家族の身体を傷つけるようなものは食べるべきじゃないって思っていますし、それは今も変わりません。お金を出して食べるだけでは、実現できないのが家庭料理です。健全な食事から、立派な大人が生まれるんです。料理することが人間を人間にするんです。だから、「一汁一菜」でいいんです。

 そもそも「料理をする」っていうことは単なる栄養摂取だけじゃないでしょ。人間としての土台を作る要素がたくさん含まれているんですよ。教わること、人に教えること、料理を作る人、食べる人の情報の交換があって、料理の向こう側にあるものを想像する力を磨くんです。人間は料理する動物です。人間は食事から、感性を高めるために必要な無限の経験をしています。経験がないと基準が持てないでしょ、それでは、違いさえわからない。違いに気づくことが感性です。

 お金にならないけど、みんながしなくてはならないものっていうのが、まず家庭料理です。
一人暮らしでも料理することで、自信が持てるし、自分を成長させます。料理して食べさせる、家族が料理したものを食べることは、人間を美しくしたり、磨いたりする経験の場です。休息する場所、エネルギーを補給して、体調を整えて、明日の準備をする場所、幸せになる場所、安らぎがあるのが家です。家庭料理が暮らしの要になります。「料理」って、人間を人間たらしめる、人間の立派さをつくるところです。

――まさに料理は人間の条件なんですね。新著『くらしのための料理学』でも、ハンナ・アーレントの『人間の条件』を引き合いに、料理のオートメーション化に触れ、料理はアーレントが言うところの労働、「人間の条件の基礎的側面」であると捉えています。

 そやから言うて「子どもに料理せえ」って言っているのとは違う。家族が作ったものを食べるっていうことがすごく重要。人が作ったもの、家族が作ったものがそこにあるということが大事なんですよ。だけど、いま、貧困の問題だけじゃなく、裕福な家庭でも家にご飯がないという子どもがたくさんいる。食育の授業の一環で中学校や高校で家庭料理についての講演をすると、リアクションペーパーなどで「家庭料理のない家もあるから、家庭料理の話はしてくれるな」という答えがあるんです。

 でも、そんな子には「自分で料理せえ」って言うんですよ。自分で一汁一菜を作って、同じように家にご飯がない友達を呼んできて二人で食べたら、二人が「家族」になれるのです。小学生でも、友達を幸せにできるのが料理です。料理を通して、新しい家族、信頼できる家族ができる。そこに、人間に必要な心の安らぎがあります。現代は家族さえ信頼できなくなりましたから、一緒に生きていく仲間を作ったらいいと思います。「作る人」と「食べる人」の関係性が重なり合うところに「家族」の意味があると思いますね。

 そのためには食べる人の意識が変わらないといけません。女性が本能的に知っていることを、男性はまだまだわかっていません。ぜひ、この本を読んで、料理の意味を知ってほしい。そうすれば、家庭だけでなく、社会も良くなると信じています。

――料理を作る、特に人に食べてもらうとなると、おいしくなければいけないという呪いのようなものもあります。

 食べる人が「おいしさ」ばかりを求めるようになったんです。それに、その「おいしい」という基準も今では、和食のおいしさではなくて、西洋的な人工的なおいしさ、わかりやすい味つけばかりを思うようになっているのです。

 和食は素材を生かすというでしょう。素材のおいしさは、静かなおいしさです。和食って、人間がおいしくしようというのではなく、いかに、素材をまずくしないようにするかを考えているんです。だから、素材が嫌がることをせずに、素材が喜ぶように、気持ちようさそうに料理をすれば、和食はおのずからおいしくなるものです。それに、細やかな季節の変化を食べることが旬を楽しむということです。同じ野菜でも、初物、盛りもの、なごりものの違いを味わいます。違いを見つけることは嬉しくて、楽しみになるのです。

 食べるということは、自然を見ているわけです。自然を意識することで、地球を大切に思うでしょう。自然を慮って料理すれば確実においしくなるのです。人間の力ではないと考えるのが、日本人です。そこを思うと、日本人の自然を思う心は、現代の環境問題に対しても、希望になるのですが。

――和食と西洋料理の考え方は全く違うということですか?

 外国は人間中心主義の文化ですから、人間の工夫によって美味しくするのが料理。さまざまな味付けをし、いろいろと食材を重ねて工夫することが料理だと考えるんです。西洋のクリエーションとは「進化」することです。一方で、和食にはそんな考え方はないわけです。自然中心主義の和食のクリエーションは「深化」です。同じシンカでも、意味が全く違います。その違いを区別しないで、進化、進化って、日本人が不得意な進化に努力しているように思います。

 今、日本には世界中からいろいろな物や情報やらが、いっぱい入ってきて、集まっています。西洋とアジア(日本)の観念、進化と深化、プロの料理と家庭料理の違い、何もかもごちゃごちゃにして、今の日本はまさにカオスです。それぞれに相反する基準があるのですが、それをごちゃ混ぜにすれば、何が良いやら悪いやら、わからなくなってしまいます。いろいろなものを、混ぜて、和洋折衷にして、新しい商品を作ってきたのですが、買う方もわからないから仕方がない。食に関しては好き嫌いの問題とか、非常に個人的な話でお茶を濁しているのが現実やと思います。

 「くらしのための料理学」では、そこを整理して解説し、まず頭の中を整理してから、読み進めていただこうと思って書いています。その違いがわかれば、だれにでも料理はできる、上手下手なんて問題ではないのだとわかるはずです。

「一汁一菜」から見えてくる持続可能な循環

――本書の後半では、土井さんは「料理」の先に地球や自然のことを見据えて、料理の利他性について考察されています。

 「料理することは、愛すること、料理を食べることですでに愛されている」のです。料理するという行為そのものが、利他であると思います。自炊は、利他性が自らに働いて、自分をよくする行為です。料理をすると不思議な生かす力が働くように思います。

 今晩何を作ろうかと思えば、自然に聞けば答えがあるでしょう。家族に食べさせるために料理することは、家族を思って作るでしょう。ということは、料理する人が、地球と人間の間にいるんです。料理すれば地球を意識できると思います。自分は地球。地球は自分です。地球を思わないで、人間だけ健康になることはできません。

――「料理とは、地球を意識すること」ですか。

 もともと人間の中にある女性性は、命との距離が近いし、命は地球とつながっているんです。当然でしょう。でも、この50年くらい、男の人は社会に出たら、そこがポトンと断ち切られてしまっていました。賃仕事というのは経済と直結していて、お金で暮らしを支えているのだから、お金こそが豊かさということになる。男性が仕事一辺倒になることが、女性のストレスになっているのかもしれないですね。すべての男性に、家庭料理の大切さを知ってほしいです。

 「一汁一菜」は現代の困難な社会に、役立つんじゃないかと思っています。「一汁一菜」をすれば余計なものを買わなくなる。日本の家庭から食品ロスがなくなるわけです。

――地球環境にも「一汁一菜」がつながってくるんですね。

 「一汁一菜」って質素に感じるかもしれないけど、忙しい日常はそれで十分です。時間に、気持ちに、お金に余裕があったら、何か作ればいい。作れる人は毎日作ればいいんです。週末は肉を焼くなど、それくらいのメリハリがあればでいいですね。

――余裕があれば、でいいんですね。とはいえ、コロナ禍で自宅で料理をする機会が増えて、お昼ご飯を食べながら、夕飯はどうしようと毎回次の食事のことを考えないといけないことにちょっとしたストレスを感じることもあります。

 それはね、冷蔵庫に何があるかなって、少しは考えた方がいいんですが、それ以上の難しいことを考えない方がいい。基本、何も考えないでいいっていうのが「一汁一菜」です。その場にあるもので、何か作ればいいのです。何かプラスするものを先に考えることが苦しくなるようです。

 プロでも新しい献立を作るのは一番しんどいですよ。できたら変えたくない。変えるということは本当にエネルギーのいることです。

 レストランや情報の中にあるご馳走みたいなものは、必要以上に家の中に持ち込まない方がいい。外で食事をする楽しみと家の中のつつましい暮らしは切り分けて、家の中は「一汁一菜」でいいからきちっと整えること。整えることが未来への持続可能な循環につながると思います。

簡単なものでいいからきれいに整える

――今まで以上に料理と向き合うことになったという人は多いと思うのですが、これだけは心に留めておくべきことはありますか?

 ご飯と味噌汁、そしてできれば漬物をきれいに三角形に並べて、箸を横に置いてお膳を整えること。ご飯のかわりに、パンや麺、味噌汁のかわりにスープでもいい。整えたお膳の前に座って「いただきます」して食べるのが基本。そうすると、自分も満足するし、落ち着くし、達成感がある。簡単なものでいいからきれいに整えるということはすごく重要ですね。

――最後に、「料理研究家」とはどんな職業だとお考えですか?

 料理研究家とは人が幸せになることを考える仕事だと思っています。私は、みんなができること、実際に料理できるレシピを紹介しています。これが基本です。その上で、時々の場に応じて膨らませればいいですね。みんなが自分自身の感性で「ああ、いいな」って思えるところに美しいものは生まれるんです。

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