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ジャック・デリダ「声と現象」 発明された概念「差異+遅延」に重要性

Jacques Derrida(1930~2004)。フランスの哲学者

大澤真幸が読む

 フランスの哲学者デリダは、二〇世紀最後の四半世紀、思想界のスーパースターだった。「脱構築」「エクリチュール(文字)」「散種」等の新概念を繰り出しながら、西洋形而上学(けいじじょうがく)の「ロゴス中心主義」を批判する彼のテクストに、世界中の若き知識人が魅了された。

 『声と現象』は、デリダの初期の著作で、現象学なる哲学を創始したフッサールの論文を読み込んだもの。デリダの本の中で最も、伝統的な哲学論文に近いスタイルで書かれている。

 デリダが発明した概念の中で最も重要だと私が考えるのは、この本にも出てくる「差延(さえん)différance」である。「異なる」を意味する仏語différerが「遅らせる」をも意味することに着眼してデリダが造った語だ。つまり「差異+遅延」。差異を意味する普通の語と発音は同じ。文字(エクリチュール)だけで区別がつく。
 哲学には、同一性と差異のどちらが先か、という問いがあり、デリダは、差異や他者性の味方である。それを最後まで貫くと、差延に至る。起源にあるかに見えた同一者も差異の産物だということになり、真の起源への到達は無限に延期されるからだ。

 と、説明されてもわかりにくい。こんな場面を思うとよい。最初は何とも思っていなかった人を急に好きになり、恋に落ちることがある。相手の人は、以前と同じままだ。なのに、あなたにはその人の何かが根本的に異なっても感じられ、それに惹(ひ)きつけられる。同じなのに差異が孕(はら)まれている。しかもあなたは、まさに恋に落ちつつある「現在」を体験できない。気づいたら恋に落ちていた、となるはず。今この瞬間好きになり始めた、と自覚することはない。意識は恋の起源に対して必ず遅れる。これは差延の一例だ。

 なぜこの概念が重要なのか。ここでは詳しく説明できないが、私の考えでは、この概念には政治的爆発力がある。「メシア的なもの」をめぐるデリダ晩年の政治思想を、この概念を使って「脱構築」したとき、それが引き出されるだろう。=朝日新聞2021年8月7日掲載