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今井麗『MELODY』 忘れてきた無数の生活風景

『MELODY』から「HAM EGGS」(2020年)

 描かれた目玉焼きの黄身を見ていたら、自分が過去に見てきたであろう目玉焼きを無数に思い出し、そのどれもがちゃんと見てきたものではないこと、思い出すふりをして、今なんとなく頭の中で「こんなだったはず」と捏造(ねつぞう)していることに気づく。そうして、目の前の目玉焼きの絵を好きだと思う。「こんなだったはず」と思い出す目玉焼きは、この絵がなければ生まれなかったもので、そして、こんなにも生っぽく、突き詰めて、目玉焼きのことを考えたのはこれが初めてだ、と思ったのだ。

 今井さんの絵を見ていると、そんな時間が何度も訪れる。知っている食べ物が知っている様相でそこに描かれているけれど、筆の一つ一つがその存在を確かめるように残していて、だから私はやっと絵を通じて、流し見しかしてこなかった自分の生活の風景を、今更(そして今更だからこそ強い関心を持って)思い出すことができる。この画集に登場するバターを乗せた食パンも、ホットケーキもハムエッグも、ものすごく好きな食べ物だった気がしてくる。そんなことは今まで一度も思ったことがなかったのに。

 絵は、それを描く人が見た風景がその人の体を通じてこちらに伝わってくる気がする。けれど、その絵を受け止める自分にも体があり、そこにも「ちらっと見ては忘れてきた数多(あまた)の風景」が積み重なっていることさえこの画集では思い出す。=朝日新聞2021年9月4日掲載