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今は考える余裕ありません 湊かなえ

  子どもが二十歳になりました。

 男の子かな、と検診時に言われ、出産日を待ちわびながら、ベビー服を何十着も縫いました。しかし、予定日を過ぎても、出てくる気配がありません。週明けに陣痛促進剤の使用が決まった病院からの帰り道、がんばれ、とお腹(なか)をなでながら、トボトボ歩いて帰りました。声が届いたのか、その週末、破水し、陣痛が始まりました。旦那と実母と、陣痛室で待機していたものの、徐々に微弱になり、今夜中には生まれないだろうと言われ、私一人が残ることになりました。しかし、数時間後、強い陣痛が始まりました。痛みの間隔が狭まるのが、壁の表に書かれているものより速く、慌てて、痛むお腹を押さえながら、ナースステーション前の公衆電話まで行き、もうすぐ生まれる、と言って切りました。それだけ伝えるのが精一杯でした。半時間も経たないうちに、二人は駆け付けてくれました。そこで、生まれるのはまだ数時間先だと知ります。なら最後まで観(み)ればよかった、と二人でブツブツと言い合っているのが聞こえました。クイズ番組「世界ふしぎ発見!」を観ていたらしく、最終問題の答えが発表される前に私からの電話があり、急いで家を出てきたのに、と。問題を教えられても、考える余裕はありません。その後もずっと、二人でクイズの話が続きます。

 数時間後、第一子としては通常の二倍の速さで、子どもが生まれました。女の子ですよ、と言われ、水色の服ばかりだよ、と困惑です。おまけに、初対面の子どもは、かなり気合を入れて産道を通ったため、全身が紫色に鬱血(うっけつ)していました。不安しかありません。しかし、数時間後、色白の愛らしい姿に対面し、うちの子が一番かわいいと、ここで初めて感動が込み上げ、泣きました。

 二十年も前の出来事を、こんなに鮮明に憶(おぼ)えているのは、きっと、「世界ふしぎ発見!」が人気長寿番組で、毎週土曜日の夜、オープニングの音楽とともに、その日の記憶が蘇(よみがえ)るからに違いありません。=朝日新聞2021年9月8日掲載