本書は言語学エッセイの体裁を持つ自称「バカ話」で、過剰なほどプロレスに触れている。本紙から書評を依頼されたのは、1981年9月23日のラッシャー木村「こんばんは」事件を田園コロシアムで目撃したり、格闘競技のバーリ・トゥードを北米に移植したアルティメット第2回大会を94年にデンバーで観戦したからだろう。
本書が売れている理由は、近代言語学の祖であるソシュールの所説を「能記(注。音声や文字)と所記(意味内容)の間は恣意(しい)的で、特別な関係はナッシング」と要約するキレや、コロナ感染症がコロナビールの風評被害をもたらしたのかを探るといった連想の妙にあると思う。
アントニオ猪木の元に「突然の殴り込み」を掛けたラッシャー木村が「こんばんは」と挨拶(あいさつ)し観客をズッコケさせた件は、挨拶は相手を驚かさないためにあり、敵に投げかけるのは不適切と診断されている。
挨拶の一般論はそうだろう。けれども本書冒頭にある通り、「言葉の理解のために、文脈の理解は不可欠」である。文脈が示されなければ木村発言の衝撃は伝わらない。
当時、善玉の日本人対悪役の外国人という定型化された役割分担は飽きられていた。それに対し猪木は言葉で煽(あお)って筋書きを展開するという技術革新に取り組んだ。新日本プロレス人気は沸騰、木村の国際プロレスは直前の9月中旬までに崩壊した。それだけに満場の観客は国際のエース木村に過激な言葉を期待した。「人気だけのくせに何がストロングスタイルだ!」といった挑発である。そこに飛び出したのが善玉然としたご挨拶だった。「だから倒産したのか」と納得させられた。
著者は一日のほとんどの会話を自分の脳内で完結させているといい、それゆえか文脈が指示されない。文脈は、他者への期待や失望に彩られる。付言すれば後年、木村は木訥(ぼくとつ)としたマイクで名脇役となった。それも予想を裏切る展開であった。=朝日新聞2022年5月7日掲載
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東京大学出版会・1870円=6刷2万1千部。2021年7月刊。「紀伊国屋じんぶん大賞2022」第3位。担当編集者は「今後はプロレスファンにもかみついてほしい」。