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東郷隆さんにバンコクのスコールを思い出させたマンガ「水街」

ユズキカズ『水街』(青林工藝舎)

 季節の区分けが無い東南アジアでは、雨季と乾季が目安となる。

 乾季といっても地域によっては、多少降雨量が少ないといった程度で、降る時は日本よりもドカッと来る所もある。

 私が初めて本格的なスコールなるものに遭遇したのは、学生時代に旅行した乾季のバンコクだった。

 篠突く、という日本風の言い方では追いつかない。天から降り注ぐ金属の棒が、一直線に地面へ突き刺さっていく。そんな強烈な水の攻撃だった。

 町の機能はその瞬間、ほぼ停止する。それまであたりを支配していた喧噪が突然消え、笊で砂を漉すような単調な雨音だけが街頭に響く。

 その時、奇妙に感じたのは、スコールを見つめる人々の、茫洋とした表情だった。

 絶望でも悲しみでもない。ただ呆け、半ば意識を失ったような暗い視線だけがそこにあった。

 この気味の悪い光景は、一体何なのだろう。スコールの中にいる魔物が人々に取り憑いて、その意識を一時的に奪い去っていくのだろうか、とも思った。

 ユズキカズの作品に初めて出合った時、バンコクでの古い記憶が、にわかに甦った。

 一九八〇年代後半、月刊誌「COMICばく」や二〇〇〇年代初頭の「アックス」に掲載された彼の短篇は、それまでぽつぽつと目にしていたものだが、ある時、下北沢のヴィレッジヴァンガードで、作品集『枇杷の樹の下で』と『水街』(いずれも青林工藝舎刊)を見つけ、大人買いした。

「ああ、これはやはり魔を描いている」

 震えるような思いで、二十数編を一気読みした。

 ユズキカズは、私とほぼ同年代の人だ。元は日本料理店で板前をしていたらしい。三十代で「ガロ」や前述「COMICばく」で作品を発表し、注目を集める。

 古風なペンタッチで、昭和三十年代の日本と、東南アジアが奇妙にミックスされた架空の町を舞台にしている。

 そこでは、狂言まわしの役を果たす利かん気の少年、己の衝動に忠実な少女、自立した肉感的な女性が縦横に闊歩する。彼ら彼女らをつなぐのが、遠慮会釈無く繁茂する南国の植物と暴力的な水だ。

『水街』も、床上浸水した町を流すボートの少年が、男女の別れ話に付き合わされる。ただそれだけのストーリーだが、膝上まで水に浸かりながら、さも日常の光景であるかのように平然と振る舞う住民たちが逆に不気味である。

 真夏の乾ききった商店街にも、水は容赦なく乱入する。それは少年が道に撒く水、金魚売りの桶水、そして突然の豪雨だ。雨は空中に金魚を吸い上げ(「昇天金魚」)、夏休みに暇を持て余した少女らに異常行動を起こさせる(「化鳥Ⅰ・Ⅱ」)。水の魔性を、これでもか、これでもか、と魅惑的に描き込んでいくのである。

『水街』の後書きに、ユズキカズは、こう書いている。「この作品集に収められた、大半のマンガは『アジア的』という、はなはだ大雑把なモチーフをたよりに描かれています(中略)。高温多湿のモンスーン地帯、水と緑のアジアです」

 SNSの紹介記事には、この人は、つげ義春と若冲と、田中一村に惹かれていると書かれている。湿度に対する信仰は、筋金入りなのである。

 近年は異常気象のおかげか、日本でもスコールが頻繁に起きるようになってきた。ゲリラ出水は東南アジア並となり、ユズキカズが憧れた水魔の社会は、この国でも日常茶飯事になりつつある。が、その湿度に刺激されて奔放に振る舞う「南国風」のお姐さんたちは、未だ出現していない。残念なことである。