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「ベイルート961時間」 戦乱の街 「食」に刻まれた記憶 朝日新聞書評から

評者: 江南亜美子 / 朝⽇新聞掲載:2022年06月18日
ベイルート961時間 とそれに伴う321皿の料理 著者:関口 涼子 出版社:講談社 ジャンル:食・料理

ISBN: 9784065260777
発売⽇: 2022/04/27
サイズ: 19cm/278p

「ベイルート961時間」 [著]関口涼子

 フランス在住で自身も詩を書き、また先鋭的な文芸作品を数多く翻訳する著者が、ベイルート国際作家協会の招聘(しょうへい)に応じてかの地を訪れ、出会った人や料理を通じて街の考察を自由闊達(かったつ)に展開したのが本エッセーである。まず仏語で執筆・出版され、本人の手で邦訳された。
 表題の961時間とは、滞在した2018年春の約一カ月半を意味するが、その間、著者は極力自炊をせず、他者の料理を求め続けたという。食の専門家としてではなく詩人として食のシーンに立ちあい、作り手の話に耳を傾ける。それは、何かを口に入れる/話すの両方の意味を持つ「口にする」という行為が可能にする、「料理の母語」の獲得だ。米を煮込んだ甘味の強いデザート、生の野菜がはぜる匂い、香草によって魂が与えられる一皿……。新しい言語を得て、著者はさらに五感を研ぎ澄ませる。日本やフランスの夕暮れとの比較、祖母の沢庵(たくあん)漬けの回想など、思念と筆先は遠く離れた事象にまでおよぶ。
 料理を知ることは、シリアやイスラエルと国境を接し、トルコやエジプトと地中海でつながるレバノンを、地政学的にとらえるのにも役立つ。エチオピアやフィリピンの女性たちを家政婦として雇い入れる共同体の多様性は、さまざまに受容と排除のグラデーションをはらむ。西欧やアフリカの料理をとりこむコスモポリタン的なレストランも多いが、それは過去にレバノンが経験した動乱の副産物といえるのだ。「たとえ食物を巡る質問をしたとしても、彼らがわたしに語ってくれる話の中には、複数の戦争の記憶がちりばめられている」
 亡命者や避難民を生んだ戦争や内戦の歴史。爆撃の体験。避難所のマルガリータ、吹きとんだポメロのコンフィ。レバノン人のみならず、外国人労働者や移民などが何気(なにげ)なく話す食のエピソードにこそ、しばしば、彼らの負った傷や葛藤が露呈すると著者は気づく。
 その声を聞き逃さずにいられたのは、著者が悲劇の予兆に敏感ゆえであるだろう。『カタストロフ前夜』という東日本大震災をテーマとする著書を持つ彼女だが、惨劇の事後は、つぎの惨劇の事前でもあると繰り返す。現にレバノンは2020年、湾岸地帯の大事故を契機に反政府デモが拡大した。
 レシピは料理人が死んだ後も世に残るとはよく言われるが、本書はベイルートが直面したカタストロフとカタストロフのあいだのひと時を清冽(せいれつ)に記録し、街の記憶を愛着とともに真空パックに封じ込めた。世界の見え方が変わる批評的な一冊だ。
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せきぐち・りょうこ 1970年生まれ。翻訳家、詩人、作家。パリを拠点とし、本書を含め仏語で20冊以上の著作がある。日本文学などの翻訳も数多い。訳書に日本翻訳大賞を受賞した『素晴らしきソリボ』など。