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倉本聰さんが語る父、戦争、テレビ界 自伝「破れ星、流れた」インタビュー

2021年10月9日、北海道富良野市で取材に答える倉本聰さん=朝日新聞社

借金まみれの父が遺したもの

――『破れ星、流れた』の前半は、「第一章 おやじの肖像」と題され、倉本さんのお父様の思い出が中心に語られます。今、お父様について書こうと思ったのはなぜでしょうか。

 うちの親父は戦前はいい暮らしをしてたんですが、戦争で家も家業も失い、戦後は事業にことごとく失敗してね。昭和27年に死んだんですが、負債しか遺さなかったと思ってたんですよ。でも、自分が物書きになって、いろんな人間を描いているうちに、ああ、そうじゃない。ぼくらが親から受け継ぐ遺産っていうのは、金銭的なものだけじゃなくって、精神的にいろんなものをもらってたんだって気づいてね。それをいつか書きたいとずっと思っていたんです。

――本書ではお父様の魅力的なエピソードが数々登場しますが、なかでも印象的だったのが「英字ビスケット」事件。小学1年生だった倉本さんが店先の英字ビスケットを2枚くすね、それを知ったお父様がその店の英字ビスケットを全部買い上げて、子どもの罪をなかったことにしたというお話。ビスケットの大袋を親子二人で担いで帰りながら、子は自分の罪に思い至る……。お父様の愛情深さと器の大きさに、「北の国から」ファンとしては、五郎を重ねずにはいられませんでした。

 ははは、とくに五郎のモデルにしたわけではありませんが、自分の父親体験を写し込んだ部分はあるでしょうね。親父も岡山の山育ちで、野鳥の会の創設者に心酔して熱心に活動して自然を愛していましたしね。僕には子どもはいませんが、富良野塾(倉本さん主宰の俳優・脚本家の養成所)や、純や蛍、子役たちとの付き合いのなかで、父親的な役割が求められるときは、「後ろ姿をだまって見せればいい」と思ってきました。富良野塾は自給自足の暮らしで重労働でしたが、まず自分からやってみせる。すると、もう五十近くのおやじが木を切って担いで……ってやってんだから、俺たちもやらなきゃって気になってくる。口で言うんじゃなくてね。そういうのは父に通じるかもしれませんね。

2017年6月29日付け朝日新聞より

――正義感が強く喧嘩っ早いお父様のエピソードが生き生きと語られ、読みながらシリーズ最終作「北の国から 2002遺言」の純の「父さん、あなたは素敵です」という独白が思い出されました。お父様に遺言があったとしたら、どんなものだったと思いますか。

 うちのおふくろが死んだときに、おふくろが大事にしていたトランクの底から、親父が戦前、結婚前に書いたであろう恋文が出てきたんですよ。それまで、おふくろっていうものは、元々おふくろっていうものであって、人に恋文をもらうような若くてピチピチした時代があったなんて想像もしてなかったんですよね。かなり衝撃を受けて、このことは「前略おふくろ様」に書きましたけどね。手紙の中身は結婚を決めた相手に送る、本当になんでもないものなんですけどね、親父の遺言があるとすれば、あの恋文。これですねえ。

欠点こそ、人間の魅力

――「英字ビスケット」事件のほかにも、肝試しに行って、自分より幼い友達を置き去りにして逃げてしまったり、ご自身の卑怯だったエピソードも率直に書かれてあります。これもまた「北の国から」の純の姿と重なりました。

 ぼくは決して優等生ではない、こずるい、卑怯な少年でしたねぇ。それを純にも埋め込みたかった。たとえば、「北の国から」には、純が自分の不注意で五郎の建てた小屋を燃やしてしまうエピソードがあるんですが、彼は火事の原因が自分だと言い出せない。ああいうところは、まさにそう。子どものこずるさ、子どもなりの処世術、そういうのは自分の体験からきていますね。

2017年6月29日付け朝日新聞より

――本書の後半、シナリオ作りについて「役者の個性を引き出すにはその欠点を見つめること」とありました。さきほどのお話もしかり、なぜ人の長所ではなく欠点に着目されるのですか。

 長所には自覚はないけれど、欠点には自覚があるでしょう。欠点に対する反省とか、コンプレックスとか、自己嫌悪とか、それこそが、その人間の魅力や面白さだと思うんです。例えば唇のでかいやつがいたとして、それを気にして隠そうとするのが面白いのであって、はじめから唇の小さいやつを書いたら、なにも面白くないわけで。

 ああ、でも、欠点をなんにも隠さない人もいて、それもそれで面白いんですよ。たとえば、岸田今日子や加賀まりこ、桃井かおり。今日子ちゃんは個人的にも親しかったんですが、口が大きいのを全然隠そうとしない人でしたね。隠そう隠そうとするやつには、せこさの可笑しさがあるし、臆面もなく出すやつには大胆な面白さがありますよね。欠点を書くと、その人間の中身が書けるんです。

切実に戦争を想像できるか

――集団疎開や東京大空襲についても少年の視点で書かれており、身に迫って感じられました。今、戦争を記録しておかなければという思いもあったのでしょうか。

 戦争っていうものは、体験したものにしかわからない切羽詰まったものがあるんです。国会中継やニュースで、「再軍備!」って主張する政治家も、「戦争反対!」って言ってる人たちも、もうみんな、戦争を体験していないんですよね。それ自体はいいことなんですけどね。

 たとえば政治家が軍備を拡大しろっていうときに、自分が直接戦争に行くってことを考えているんだろうか。自分に息子がいたとして、その息子が戦争に行ったとき、父親としてどういう思いになるか、そういう切実な想像ってしてるんだろうかって思うんです。相手が草むらに潜んでいて、いきなり飛び出して銃を撃ってきたときの感じ。腕に銃弾が突き抜けたとき、血が出たときの痛み。あるいは敵に取り囲まれた時の恐怖。

2017年4月5日付け朝日新聞より

 もっと言うとね、殺されることの恐怖じゃなくて、殺すことの恐怖について想像できるだろうかって思うんです。ずぶっと人の体に銃剣を突き刺して、その時相手の体から血が噴き出したり、どんな苦悶の表情をとったか、どんなに憎しみの目でこっちを見たか……。ぼくら上の世代に戦争を語る人が少ないのは、そういうものを二度と思い出したくないからじゃないかな。無言を貫くことしかできなかった。それほど戦争って、強烈なものだと思うんです。

 この本に書きましたが、戦後、池袋の闇市で戦勝国のやくざが特攻くずれの若者をリンチするのを間近で目撃したことがあります。少年だった僕は戦場には行かなかったけど、あのとき、目の前で人が殺されるのを見た。返り血が僕の服に付いたんです。空襲で逃げ回ったり、防空壕に飛び込んだりしたのはまだ遠い、浅い体験だった気がするんです。池袋の殺し合いが僕にとって一番切実な戦争体験だった。語ることさえできなかった人たちの代わりに、せめて自分の体験は伝えないと、という思いはあります。

破れっぱなしの人生

――『破れ星、流れた』の後半は、東大を目指しながらもシナリオの世界に魅入られ、やがて脚本家・倉本聰が誕生するまでが描かれます。ドラマを演じる側でも撮る側でもなく、書く側に惹かれたのはなぜでしょうか。

 まず、ひとりでできるってことですね。役者には相手役がいるし、映画を撮るにはスタッフがいる。脚本家は人も金もいらない。ペンと紙と想像力があればいろんなことができる。それに、シナリオっていうのは、総合芸術のスタート地点にありますよね。全くなんにもないところから、一つのものを生み出す最初の火付け役。その位置にいたい、という思いがあったんでしょうね。

2017年2月24日付け朝日新聞より

――全編を通して、倉本さんの創作の秘訣が垣間見られるのですが、なかでも「これぞ倉本!」と興奮したのが、盗聴ノートのエピソードでした。東大に2浪中、予備校をサボり、喫茶店で隣の席のカップルの会話を盗聴してはノートに書き留め、そこで「間」の重要性に気づくという……。あの習慣は今でもあるのでしょうか。

 やってますよ。出かけた先で時間があれば耳を澄ましている。だけどね、最近の若者は男女いっしょに席に座っていてもスマホばかり打って、喋っていませんね。なんにも新しい言葉が聞こえてこない。だから本音がわかんないんですよね。あれで当人同士はわかってるんでしょうかねえ。

――その後、無事東大に合格し、大江健三郎や寺山修司、谷川俊太郎などと交流しながらシナリオの才を認められ、その後のご活躍は皆の知るところで。倉本さんのことを、この本のタイトルの「破れ星」だとはとても思えなかったのですが……。

 僕は破れっぱなしの人生ですよ。いやほんとですよ。謙虚でもなんでもなく、ひどいもんですよ。僕が成功者に見えるとしたら、それは僕の書き方がうまいんです。隠し方がね(笑)。

神様のいなくなった日本

――倉本さんはラジオからテレビへの過渡期に脚本家になられました。今、テレビ界は動画配信サービスへ座を奪われつつありますが、現在のテレビ界をどう感じていらっしゃいますか。

 ラジオからテレビ、テレビから動画サービスへの変化は、単に機械的な変化ではなくて、人間側が変わっていったように思うんです。ラジオからテレビへ代わり始めた当初は、「じゃあどうやってラジオを面白くしようか」って制作意欲もいい方向を向いていた。サテライトスタジオを作ったり、深夜放送を始めてみたりね。でもそれがどんどん経済主体になっていって、なんでもいいから客を惹きつけろって、おふざけとかエロとか人の欲望をかき立てるほうへ、品がなく進んでいく。

 そして、スマホとかネットで、「匿名」っていうものが出てきてから、人間がどんどん性悪になっていったように感じます。最近も女子プロレスラーの木村花さんが、テレビ番組に出たことで誹謗中傷を受けて、自殺してしまった事件がありましたよね。これは明らかにメディアの責任ですよ。YouTubeとかLINEとか、文明の進化に、倫理教育が追い付いていない。作り手側も受け手側もね。

2021年10月19日付け朝日新聞より

 ぼくが思うに、人間の品が悪くなった根本は、戦後、日本に神様がいなくなっちゃったせい。この「神様」って天皇制とか仏教とかそういうことじゃないですよ。どこかから自分の行為を見つめている存在のことです。戦後、神様の代わりに出てきたのが法律。法律っていうのは、レーダーみたいなもので、法の目をくぐろうと思えばくぐれちゃうんですよ。でも神様の目はあらゆるところにあるからくぐれない。僕は子どものとき「そんなことしたら罰が当たるよ」って育てられました。今の親はどうなんだろう。子どもに対して神様という言葉を出すことはあるのかな。昔の人にはいちいち反省や罪の意識がありました。

――たしかに、純はいつもモノローグで自分のことを反省していたように思います。好書好日の読者のほとんどが、“神様がいなくなった”戦後生まれです。この本をどんな風に受け取ってほしいですか。

 昔の人間が持っていた倫理観をどこかで感じてもらえたら。例えば、僕は結構悪いことしてるんだけど、それに対してどういうふうに贖罪しようとしていたのか、とか、どんなことに自己反省しているのか、とか。それでもこそこそ悪いことしちゃう愚かさも含めて読んでもらえたらうれしいですね。

――ありがとうございました。今からもう次作が待ち遠しいのですが、なにか書いていらっしゃいますか。

 この『破れ星』の続編を書き始めています。書きたいことがまだまだ山のようにあります(笑)。