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西條奈加「隠居すごろく」 何歳からでも人は変われる

 老舗糸問屋の店主・徳兵衛は還暦を機に息子に身代を譲り、念願だった隠居生活を始める。隠居家に引っ越し、好きなことをして暮らすつもりだった。

 しかしこれまで商売一辺倒だった徳兵衛には趣味がない。退屈をもてあましていたところにやってきたのが八歳の孫の千代太だ。だが喜んだのも束(つか)の間、徳兵衛は動物嫌いなのに、千代太は汚い犬や猫を可哀想だからと拾ってくる。情けをかけるなら人間相手にしろと叱ったら、今度は貧乏な子どもたちを連れてくるようになり……。

 ここから徳兵衛の隠居生活は彼が予想もしていなかった方に転がっていくのだが、その様子が実に痛快。仕事をとったら何も残らない、孫との接し方もわからないことに気づき、頑固で恐れられた老人があたふたする様子には思わず頰が緩む。

 だがそれだけなら、いわゆる中高年小説にはよくある話。本書が面白いのは、孫が持ち込む厄介ごとに徳兵衛がそれまで培ってきた商人の知見と経験で対応することだ。それが人を巻き込み、人を動かし、思わぬ大きな流れになる。つまり、商売だけに向き合ってきた徳兵衛の来し方を否定しないのである。

 家族を顧みなかった過去は変えられないが、だったらこれから取り返せばいい。商売しかできない現実も変えられないが、だったらそれを生かす暮らしを探せばいい。事実、徳兵衛は商人だったからこそ孫の間違いに気づけたし、新たな出会いを得て新たな生きがいを見つけることができた。反省や後悔はあれど、培ってきたものは決して無駄ではないと、この物語は告げているのである。

 隠居はゴールではなくスタートだ。人は何歳からでも学べるし変わることができる。実に楽しく、笑って泣けて、自分もかくありたいと励まされる老後小説である。ラストシーンのなんと清々(すがすが)しいことか。

 現在続編の「隠居おてだま」がWEBで連載中。単行本化が今から待ち遠しい。=朝日新聞2022年7月9日掲載

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 角川文庫・836円=10刷5万9千部。2月刊。主な読者層は60~70代の女性。「老後というテーマが時勢にマッチし、著者の直木賞受賞も後押しになった」と担当者。