時々、自分がことばを操っているのではなく、ことばに自分は操られていると感じる。テレサ・ハッキョン・チャをめぐって編まれた『異郷の身体』(2006年刊、池内靖子・西成彦編、人文書院・2860円)を捲(めく)ると、私のこの感覚は異様ではないと安心する。テレサ・ハッキョン・チャ(1951~82)は韓国生まれ。軍政を逃れるために一家でアメリカに移住したアーティストだ。この本の、とりわけ、詩人・ぱくきょんみのエッセイ「わたしの東洋の骨が鳴る」は何度読んでも骨髄に沁(し)みる。
「ことばを遣うということは、他者のことばによって憑依(ひょうい)されるということだった。(……子どもは最初に出会った他者のことばに自分自身をメディウムとして憑依され、それを真似〈まね〉し繰り返し身をのせるだけである)」
私のことばは、私の中から自然と湧き上がってきたものではない。私のことばは、赤ん坊だった私の外からやってきて、私が現在のようにものを感じ、思い、考える「傾向」を形作った。
「生まれながらの自分のことば=母語があるかのように信じこむことができる人々はなんと幸せな人たちだろう。この幸せは無頓着、無恥に近いものだ」
テレサ・ハッキョン・チャ自身による『ディクテ』(03年刊、池内靖子訳、青土社・品切れ)を少しでも捲れば、母語とは自分自身と一体化した生まれながらのことば、などとは到底思えなくなる。「わたしの母にわたしの父に」捧げられた「自らの生と現代世界史を一冊に凝縮した究極の実験的テクスト」と銘打たれたこの「自伝的エクリチュール」を辿(たど)るのは決して楽ではない。そこに刻まれた文体は、流通させるという目的を最優先した読み物とは対極にある。であるからか、未(いま)だ読破できずにいるこの「愛読書」を発作的に「読み」たくなる。
『ディクテ』を捲る際に募る畏怖(いふ)の念に似たものを私は、崎山多美を読むときにも抱く。たとえば、『月や、あらん』(20年刊、インパクト出版会・2200円)。この小説もまた、崎山多美の他の本と同様、何度か読み終えているはずなのに、本当にこれを自分は読んだことがあるのかと疑いたくなる一冊だ。著者自身が「病床にいた私の母が戦時の宮古島で体験した『慰安婦』の記憶を語ったことから受けた衝撃を、娘として捨て置くことができず(……)どうにか作品化したもの」と書き記しているこの小説に備わるものを、毎回精一杯(せいいっぱい)受け取ろうとしながらも、私が受けとめ損ねているものが、そこらじゅうにたゆたってあるように思えて仕方ない。
「授かったものはかぎりない。ほんの一部でも活(い)かしていきたい」
ノーマ・フィールドが『へんな子じゃないもん』(06年刊、大島かおり訳、みすず書房・品切れ)のあとがきに記した一節である。日本文学研究者である著者の家族史と日本の戦後史が交錯する地点で綴(つづ)られたこの本の原作は英語。著者が日本語タイトルに選んだのは、病床にあった祖母の一言だ。米国人の父親を持つ「ほんとの日本人じゃない」自分を「変な子」だと感じていた孫娘が、祖母から授かった「宝 jewel, treasure」のようなことば。著者が耳にしたかけがえのないその響きを、つい想像したくなる。ヘンナコジャナイモン。逝きつつある祖母の国で、著者は考えている。
「二〇年まえの娘は言語の手前の段階にいた。いまの祖母は言語の向こう側へ行ってしまっている」
決してことばでは到達できない領域の気配を、ほかでもないことばそのものによって感じさせてくる文章と巡り合うたび、語り尽くしてもなお語り得ぬもののためにこそ、書くという行為に対して誠実であろうと誓い直す。=朝日新聞2022年9月24日掲載