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憲法と安全保障 9条の意義と普遍性に照らす 東京都立大学教授・木村草太

自衛隊観閲式で巡閲する岸田文雄首相=2021年11月、陸上自衛隊朝霞駐屯地

 ロシアのウクライナ侵略は、あまりに不合理に見える。自国民にも多大な犠牲を強い、国際的な批難(ひなん)を受ける。ウクライナと平和的に協力する方が、経済的利得もはるかに大きいはずだ。なぜこんなことをしたのか。

 大澤真幸『この世界の問い方』は、「帝国」としての自己認識に着目する。帝国は世界全体を勢力圏とする国家である。国際社会で思うが儘(まま)に振る舞える自由を確保することこそが、帝国にとっての合理性だ。
 こうした帝国の振る舞いは日本の人々にも恐怖を与え、防衛力強化を求める声が広がっている。この点、木庭顕『憲法9条へのカタバシス』は以前から、近年の憲法と安全保障の議論が非論理に流れている、と警鐘を鳴らしてきた。恐怖を吹き飛ばす「気分」の醸成が優先され、「Aは非Aだ」式の非論理が幅を利かせる社会への警鐘だ。

「非論理」の侵食

 非論理の萌芽(ほうが)は昨春の本紙世論調査にも見られる。日本は、憲法の帰結として、日本が攻撃されない限り武力を行使しない「専守防衛」政策を採用してきた。調査では、これを今後も維持すべきとの回答が68%に達した。論理的に考えれば、日本が攻撃されていない場合に、集団的自衛権に基づいて武力行使するのは、専守防衛に反する。ところが、同じ調査で、集団的自衛権の行使を容認する回答は58%に上った。
 「集団的自衛権も専守防衛だ」は、典型的な「Aは非Aだ」式非論理だ。いい加減に、憲法を維持して専守防衛か、改憲して集団的自衛権の容認か、を論理的に選択すべき時だろう。

 集団的自衛権の是非以外にも防衛を巡る論点はある。国際政治学者が集い著した『ウクライナ戦争と世界のゆくえ』の中で、小泉悠は次のように指摘する。
 今回の戦争は、古色蒼然(そうぜん)とした侵略戦争が未(いま)だに起き得ることと、その戦争が世界全体への情報工作という最先端の手段を伴い遂行されることを示した。現代の国家闘争は、古いものから新しいものまで、無数のバリエーションをとり得る。その全てに対応しようとすれば際限なき軍拡となり、相手の恐怖を駆り立て破滅的な軍拡競争に至るだろう。対応の優先付けと、歯止めの論理が必要だ。

戦力不保持とは

 木庭はその歯止めを憲法9条に読み取る。侵略国家は、日本の領域内では私的な暴力集団にすぎないから、それを局地戦的に退けるのは9条に反しない。しかし、自衛名目の先制攻撃はもちろん、他国に脅威を与える「火の玉軍事化」は禁じられる。これが戦力(war potential)不保持の本義だ。
 「火の玉軍事化」とは、大量虐殺を可能にする重武装、総動員規模の徴兵制、国家予算の大部分を軍事費に振り向ける総力戦体制の構築などを言う。今日、それらのことは、どの国がやっても批難の対象になる。とすれば、9条は日本だけにとどまらない普遍性を持つ。敵基地攻撃能力や防衛費増額についても、この論理から検討すべきだ。
 「火の玉軍事化」の回避が普遍原理だとするなら、世界各国がそれを選択できる国際的環境を作る必要がある。大澤は、日本がそのために積極的な役割を果たしたときにはじめて、憲法9条が日本のものになるという。

 では何が必要なのか。『世界のゆくえ』で各地域の専門家が指摘するのは、ロシアと関係の深い諸国とも良好な関係を維持し、中国との緊張を緩和し、アジア唯一のG7参加国としてインドなどの多様なアジアの声を届け、欧米と異なる規範を持つ中東諸国を含めた国際秩序を構想するなど、地道な努力の積み重ねの必要だ。
 複雑な国際問題を一発で解決する手段などない。軍事力への幻想に惑わされてはいけない。=朝日新聞2023年1月28日掲載