「女の子たちの話が好きだった」
――幼い頃の読書の記憶を教えてください。
櫻木:絵本が好きでした。立原えりかさんの『そよかぜのてがみ』は、今でも文章を憶えています。それと、小学校1年生の時に、「先生あのね」みたいな作文に、「中川李枝子さん」というタイトルで文章を書いているんです。「中川李枝子さんはすごいと思います」という1文から始まって、最後には「中川李枝子さんを見習って、立派な作者になります」という文で終わる熱い内容でした。なので、当時は中川李枝子さんの信奉者だったんだと思います。中川さんの絵本は『ぐりとぐら』はもちろん読んでいたと思いますし、作文には『そらいろのたね』や教科書に載っていた「くじらぐも」のことを書いていました。ただ、「くじらぐも」は今でも憶えていますが、『そらいろのたね』は憶えていなくて...。そうした内容も作文を書いたことも、その後はずっと忘れていたんです。
よく憶えているのは、プロイスラ―の『小さい魔女』が大好きで、持ち歩いていたことです。お出かけする時も、サンリオのバッグにその本を入れて持っていっていました。
――どこでも読み返せるように、ということですか、それともお守りみたいな感覚で、ですか。
櫻木:たぶん、両方ですね。繰り返し読んでいましたし、あとはやっぱり、自分も魔女になりたいと思っていたので。小さい魔女にはカラスの相棒はいるけれど、わりと1人で楽しく元気に修行したりして暮らしているので、そういう感じに憧れがあったのかもしれません。
――「作者になりたい」と書かれていたということは、自分でもお話を作ったりはしていたのでしょうか。
櫻木:そうですね。宿題の日記帳にも、よくお話を書いていました。小学1、2年生の時、担任の先生がすごくいい先生だったんです。20代の女性の先生で、たぶん本が好きな方で、授業の合間に松谷みよ子さんの『ちいさいモモちゃん』などを読み聞かせてくださって、私の作文も楽しみにしてくれていました。それで張り切って、長いお話を書いていました。いちばん長かったのは、『がまくんとかえるくん』シリーズの「お手紙」が教科書に載っていたので、がまくんとかえるくんとクラスの子30人全員出てきて、体育館で大きなケーキを作るお話でした。
――櫻木さんはプロフィールに福岡県出身とありますが、どんな環境で育ったのですか。
櫻木:福岡の筑豊の町で育ちました。図書館も本屋さんもない町で、しかもすごい坂を上ったところにある家に住んでいたんです。木に囲まれて、裏に小川が流れていて、周りは山や田んぼばかりの場所に母が家を建てて、犬や鶏を飼い、キウイとかモモとか栗とかいった実が食べられる木を植えて、という。なので山の子みたいにして育ちました。
――思い切り野山を駆け回るような?
櫻木:駆け回るというより、庭でじーっと虫とか葉っぱを眺めていたりして(笑)。でも木のぼりや竹馬は好きだったし、近所の子たちと忍者部隊を結成して基地を作ったりもしました。そういう場所だったので、家では本しか娯楽がなくて、父親が町に行く時に本を買ってきてくれるのを楽しみにしていました。
――じゃあ中川李枝子さんの絵本なども学校の図書室ではなく、お父さんが買ってきてくれたものだったのしょうか。
櫻木:そうかもしれません。私は小学校はいくつか転校しているんですが、最初に通った小学校では低学年は図書室を使わせてもらわなかったので。
――あまりテレビを見たりラジオを聴いたりはしなかったのですか。
櫻木:テレビはアニメくらいしか見ていませんでした。魔法っ子が出てくるようなアニメや「ドラえもん」も好きだったんですけれど、心惹かれたのは「妖怪人間ベム」ですね。このインタビューのお話をいただいてからいろいろ思い出していたんですけれど、自分は異国を旅する、みたいなものが好きだったのかなと思って。「妖怪人間ベム」も異国情緒があるというか、暗い感じのヨーロッパの町並みを、家族でもない3人が放浪しているお話じゃないですか。その雰囲気が好きだったのかもしれません。
――なるほど確かに異国情緒ありましたね。読書は、その後児童書なども読むようになったわけですよね。
櫻木:はい。小学校低学年の頃は『おちゃめなふたご』シリーズが大好きでした。挿画の田村セツコさんの鉛筆画も好きで。その後、村岡花子さん訳の『赤毛のアン』のシリーズにもハマって、1巻から10巻まで何回も読み返しました。
――『おちゃめなふたご』は双子の姉妹が寄宿学校に入る話だし、『赤毛のアン』ももちろん、海外での女の子たちの暮らしが分かって楽しいですよね。知らない食べ物とかも出てくるし。
櫻木:素敵な女の子がいっぱい出てくる話が好きだったようです。私は今でも素敵な女の人に会うと憧れるし、女友達が大好きなので、女の子が素敵な女友達に出会っていろんな話をしたりする場面に惹かれたんだと思います。
『赤毛のアン』は孤児のアンが引き取られてグリーンゲイブルズに来た頃の話も好きなんですけれど、ギルバートと結婚した後、ギルバートが学生時代のマドンナと再会して、その2人を見ながらアンが「ギルバートはきっと自分との結婚を後悔して、彼女と結婚していたらよかったって思っているに違いない」みたいに思っているシーンがすごく好きでした(笑)。嫉妬の感情に興味があって、ぐっときたんですよね。結局、ギルバートは全然そんなことを考えていなかったんですけれど。
――海外文学を読むことが多かったのでしょうか。
櫻木:ミヒャエル・エンデの『モモ』も特別に好きでした。国内作品は、講談社の「少年少女日本文学館」という、芥川龍之介や太宰治、夏目漱石、宮沢賢治といった日本の近代文学の作家の作品が一通り入っているシリーズを読んでいました。
その全集に安岡章太郎の「サアカスの馬」という話が入っていたんです。それまで素敵な女の子たちの話が大好きだったんですが、それは格好悪い男の子の話でした。でもそれが、すごく胸に響いたんですね。みっともないことや惨めなことも、小説的、詩的なものに反転させることができるんだと学んだというか。その時に文学に出合ったのかもしれません。
――全集だから、太宰や夏目は長篇ではなく短篇が入っていたということでしょうか。
櫻木:漱石は『坊っちゃん』なども入っていて読みました。太宰は『走れメロス』だった。今思うとすごく丁寧な仕事をされていて、子供が知らないような言葉や風習は全部、脚注や写真で説明がしてありました。
「9歳の衝撃」
――この作家が好きだな、と思った人はいましたか。
櫻木:芥川龍之介に親しみをおぼえました。私は父が大正生まれで、当時からみんなに「おじいちゃん」と言われるような年齢で。その父が若い時に、鈍行列車で東京に受験に行く時に緊張のあまり途中駅で降りて、気が付いたら精神病院に入っていて、ネズミが自分に話しかけていた、というんです。当時の言葉でいうと電気ショックみたいな治療を受けてもとに戻ったそうです。その話を小さい時から聞いていたので、芥川龍之介が、母親が精神を病んでその後亡くなったことで、自分もそうなるんじゃないかと怯えていたと知り、親近感を持ちました。私も子供の頃、父のことは大好きだけど、いつか自分も若い頃の父みたいになるんじゃないかって、いつも考えていたんです。
――お父さん、大正生まれだったのですか。『うつくしい繭』の表題作の参考文献のところに〈シベリア抑留体験については、多くは亡父の談話を参照しました〉とあったので、おいくつなのかなとは思っていました。
櫻木:父は本当に浮世離れした人でした。いつも本を読みながら道を歩いていて、ポケットから小銭がどんどん落ちているのに気づかないような人で。逆に母は社交的で現実的で、すごくパワフルで明るいんです。母は最初、町で父が本を読みながら歩いている姿を見て、『罪と罰』の主人公みたいな風貌だと思い、友達と「ラスコーリニコフ」と呼んでいたらしいです。歳の差もすごくあるし、正反対な二人なんです。
私が小さい時にはもう父は退職して家にいて、人から頼まれて夜に進学塾や家庭教師の仕事に行くくらい。一方の母は外でバリバリ働いていました。父は運転ができないのでいつも母が運転し、父は助手席で本を読んでいました。そんな感じなので、うちはみんなの家とは違う感じだなって、ちょっとコンプレックスを持っていました。のちに結婚して別れたフランス人の元夫は私のよき理解者だったんですが、彼に、私は父と母の両極端の部分両方を持っていて、引き裂かれているところがあるのではと言われました。その通りだと思います。
――ごきょうだいはいらっしゃるんですか。
櫻木:三つ下の弟がいます。弟はすごく天真爛漫なんです。なので家族の中では母も明るいし弟は天真爛漫だしで、私は風変りな父にいちばん共感していました。
――おうちにはお父さんの本がいっぱいあったのでは。
櫻木:父の書斎にすごくたくさん本がありました。小学校3年生の頃から父の書斎に行って、自分が読めそうな本を探すようになりました。これは母の蔵書だと思いますが、黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』もそこで読んで大好きになりました。
その書斎に、お菓子のカンカンがあって開けてみたら、手紙の束が入っていたんです。読んでみたら、両親が結婚前に文通していた手紙だったんですよね。父はリルケとかを引用して文学的な手紙を送っているんですが、母は「火事があったので見に行きました」みたいな内容で。二人は父が社会人に英語を教えていて、母がそれを習いに行って出会ったようなんですが、母の手紙に「先生も奥様とお子様のことが心配だと思います」と書いてあったんですよ。私、それで、父に家庭があったことをはじめて知って衝撃を受けました。9歳の時でした。衝撃的すぎて両親には何も聞けませんでした。その人のことはなんでも知っていると思っていた人に、自分の知らない歴史があって、知らない人間関係があるということをはじめて知った日でした。
――9歳でそれは衝撃かも...。
櫻木:ですよね。私はミラン・クンデラも好きなんですけれど、クンデラが「年齢という謎は小説だけが解明できる主題のひとつで、9歳というのは人間にとって境界の年だ」という内容のことを書いてるんです。9歳の女の子が主人公だという、アイスランドの作家の小説に寄せた評でした。その本も探したんですけれど、翻訳されていなくて読めなくて。なんか、私自身にとっても9歳が分かれ目の歳だったと思うんです。父の過去を知ったのもその歳でしたし、世界は安心できるところだと思っていたのに、ケストナーの『飛ぶ教室』を夢中で読んでいる時に知らない男の人に声をかけられて物陰に連れていかれそうになったのも9歳の時で、それもすごく衝撃でした。
「中学から寮生活」
櫻木:『おちゃめなふたご』に憧れていたので、私、中学校の時にうっかり寮に入っちゃったんです。でもすごく厳しいシスターが管理してる寮で、真夜中のパーティもできなかったんですけれど。
――中学生で寮に入る人って多かったんでしょうか。
櫻木:たぶん珍しかったと思うんですけれど、自分が住んでいるところが田舎すぎたんです。中学に進学する頃は、母がもっと自然の中で育ってたら面白いんじゃないかというだけの理由で、本当の修験道の山みたいなところに引っ越していたんですよ。山伏の宿坊だった家を借りてリノベして。参道の石段をずっと降りていった先に小学校はあったんですけれど、同級生は5人だけ。中学校はすごく遠くなるので、それで受験して都会の学校に行ってもいいかもね、という話になって。それでカトリックの女子校に進みました。
――どんな日常を送られたのでしょうか。
櫻木:私は小学生のころ、街で「あの子長靴はいてるよ」と笑われたりしていたんですが、福岡市のその女子校は、すごくお嬢様学校で、福岡市の著名人とか代々医者のおうちの子も来ていました。中学生でオメガの腕時計をつけていたり、ホテルのバーで父親とご飯を食べていたり。私はどこの山の子だって感じだったと思いますが、私のことをすごく大事にしてくれる子たちもいて、それでやっていけた。
あと、実家がまた引っ越しをして、遠いけれど何とか通える距離になったので、寮を出て、通学するようになりました。塾に入って、そこで公立中学の子たちと仲良くなって、それがすごく楽しかった。
読書生活では、現代作家を読むようになりました。山田詠美さんが大好きになって、山田さんの本をお守りのようにして鞄に入れていました。
最初に読んだのは『放課後の音符(キイノート)』や『風葬の教室』で、そこからもう大好きになって、高校生になってはじめて買った香水は山田さんの小説に出てきた香水だし、大学生になってはじめて飲んだお酒は山田さんの小説で知ったジントニックでした。山田さんの小説から物事を教えてもらっていました。
――なぜそこまで心に刺さったのだと思いますか。
櫻木:そうですね...。いま思ったんですけれど、魅力的な女性とか、格好いい大人とはこういうものだ、ということを書かれている方だと思うんですね。そこにしびれたのかもしれません。
――『放課後の音符(キイノート)』とか『蝶々の纏足』のような10代の子たちが主人公の小説だけでなく、『ジェシーの背骨』とか『トラッシュ』とか...いろいろ読まれたわけですね。
櫻木:はい、全部読みました。ただ友達に薦めたら、友達のお母さんからは遠回しに叱られました(笑)。「まだ早い」って。
――そういう本は、書店で見つけたのですか。
櫻木:はい。文庫で買っていました。山田さんのエッセイがきっかけで、宇野千代さんや森瑤子さんも読みました。あとは友達が村上龍さんのファンだったので、自分も『限りなく透明に近いブルー』、『コインロッカー・ベイビーズ』などを読んでいきました。村上龍さんの作品では、これは大学生のときに読んだものですが、『映画小説集』も好きでした。
筒井康隆さんにも夢中になりました。国語の先生が授業中、ぽろっと筒井さんの『七瀬ふたたび』が面白いとおっしゃって、それで七瀬シリーズの『家族八景』『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』の三部作から入りました。同じ先生がふと口にしたことで林真理子さんの『葡萄が目にしみる』も読んで、とても印象に残っている一冊です。宮本輝さんもいろいろ読んで、『錦繍』を特に好きでした。
――その頃は、「中川李枝子さんのような作者になりたい」と書いたことは忘れていたわけですか。
櫻木:まさに、それまで忘れていたのが、山田詠美さんの小説を読んで思い出したんです。
やっぱり自分も文章を書くようになりたいと思いました。ただ、山田さんのエッセイもその時出ているものは全部読んだんですけれど、山田さんはよく「発酵」という言葉を使われているんですね。小説を書く時でも待つ時間、発酵する時間が大事、みたいに書かれていて。自分はまだ中学生だからこの発酵の時間が必要で、小説を書けるのは今すぐではないんだろうな、と思っていました。
――国語の授業は好きでしたか。この連載で読書感想文についてうかがうと、みなさんいろいろだなと思うんです。
櫻木:私も過去の回を拝読していますが、「読書感想文は嫌いだった」という方も多いですよね。たぶん「嫌い」っておっしゃる方って、ちゃんと何を求められているかとか、フォーマットとかを分かった上でそうおっしゃっているんですよね。私はそれさえ分かっていなくて自由に書いていて、作文は好きでした。賞などももらっていました。
――部活は何かしていたのですか。
櫻木:寮の時は門限が厳しくて、学校のすぐそばにあるのに、運動部や演劇部といった時間のかかる部活が禁止だったんですよ。門限が6時なんですが5時に帰っても怒られる。
寮を出たあと、映画好きの友達と一緒に、皆で映画を観る部活を作ろうとしたのですが、必要な人数を集めて、顧問の先生も立てたのに、学校が面倒がって許可を出してくれなかった。つまらないなと思いました。
ただ、好きな先生は何人かいて、その先生にインタビューをしたくて、最終的には新聞部に入りました。先生に好きな本や好きな音楽を教えてもらって、自分も摂取していました。
――先生に教えてもらって良かった本はありましたか。
櫻木:さきほどの筒井康隆さんもそうでしたが、「好きな本を貸してください」と言ったら『サラダ記念日』を貸してくださって、そこではじめて現代短歌を読みました。
――好きな先生にインタビューしにいったということは、あまり人見知りとかそういうタイプではなかったわけですね。どういう少女だったのかなと思って。
櫻木:自分が変な人間なのではないかという不安はずっとあるんですが、すごく人見知りなところと、人懐っこいところの両方がある感じだったと思います。
――寮にいた頃は、それほど門限がはやいとなると、夜はどう過ごされていたのですか。
櫻木:お喋りしたり、イヤホンでラジオを聴いたりしていました。漫画も禁止されていたんですが、「りぼん」をこっそり買って回し読みしていました。矢沢あいさんとか、さくらももこさんとか、岡田あーみんさんとかが連載をされていた頃です。吉住渉さんが全盛でした。友達が貸してくれて『SLAM DUNK』も。
「好きな小説は書き写す」
――中高一貫校だったのでしょうか。
櫻木:私は塾で一緒に勉強していた子たちと、自分も高校受験をしたかったんです。でも当時の九州では、寮がある偏差値の高い学校は全部男子校だったんです。いまは女子を受け入れるようになって、共学になった学校も多いですが、当時は男子だけだった。公立の高校は共学でしたが、福岡市や北九州市などの都市部にはいい学校があるけれど、私の実家の地域からはそれらの学校は受験できない。それで、高校受験をしたいというのを中学の先生に猛反対されて、そのまま内部進学したんです。
私が育ったのは貧しい炭鉱町だったから、自分が教育を受けられているのは幸運なことで、感謝しないといけないとずっと思っていました。それでも地域格差と、性差の制限を感じた出来事でした。
友達と学校の先生に恵まれたことと、ひたすら本を読んだことが高校のよかったところです。本は、村上春樹さん、吉本ばななさん、江國香織さんなどをたくさん読みました。その後に繋がるものとしては、沢木耕太郎さんの『深夜特急』です。あれを読んで、大学生になったらインドに行こうって決めました。
――そこまで決意させたのはどうしてだったのでしょう。
櫻木:やっぱり沢木さんの文章の生き生きした感じに惹かれたのかなと思います。今ぱっと思い出したのは香港のホテルのベッドの下に特大のゴキブリがいたっていう描写なんですけれど(笑)。でも、あれを読んで、自分もインドにも行ってみたいと思いました。
――大学で東京にいらしたわけですよね。学部や専攻はどのように選んだのですか。
行きあたりばったりでした。途中で学部を変わったり、京都に国内留学をしたり、そこでも遠方の女子大に聴講に行ったりして、あれこれ勉強しようとしていました。今の自分からすると、ひとつの専門なり、ひとつの語学なりをしっかり勉強したほうがよかったと思います。
――学生時代の読書生活は。
櫻木:大江健三郎さんが大好きになりました。大学時代に出合って大好きになったのは大江さんとドストエフスキーでした。山田詠美さんを好きになった中学生の頃からやっていたんですけれど、私は好きな詩や小説の文章をノートに書き写すんです。大江さんの小説で書き写したのは『芽むしり仔撃ち』です。その頃好きだった短篇だと「人間の羊」とか「他人の足」とか。長篇は『万延元年のフットボール』も好きです。ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の気に入った箇所をいっぱい写しました。
――どういうところに惹かれたのでしょう。
櫻木:文章の素晴らしさも大きかったし、あとは、今訊かれて思ったんですけれど、二人とも人間の汚なさや卑俗さも書いてるんだけど、ユーモアがあって、人の中に善性や崇高さがあるということを信じている感じがするからかもしれません。その頃に読んだ本では、原民喜の『夏の花』も特別に思います。また、金井美恵子さんの「愛の生活」や古井由吉さんの「妻隠」、内田百閒『冥土』なども、文章に惹かれて読み返していました。
――ところでさきほどミラン・クンデラが好きだとおっしゃっていましたが、読んだのはいつくらいですか。
櫻木:ああ、学生時代です。『存在の耐えられない軽さ』をとても好きで、テレザが感じている、心を裏切る身体というものに対する苦しみも、もうひとりの女性の登場人物であるサビナの、自由を求めてひとりで放浪する感覚も、どちらもが自分自身のものとして感じられました。子どものころ『小さい魔女』を持ち歩いていた時のように持ち歩き、繰り返し読みました。他に好きだったのが...今タイトルが思い出せないんですけれど。
――『冗談』が有名ですけれど、『不滅』とかもいいですよね。
櫻木:ああ、『不滅』って、スイミングスクールに行くところから始まる話ですよね。
――すごい記憶力。
櫻木:(笑)。『不滅』、好きでした。あとさっきお話しした、9歳についての記述が載っていたのはクンデラの『出会い』でした。大江さんもクンデラのことが大好きなんですよね。人間としても大好きみたいなことをおっしゃっていますよね。
――それと、櫻木さんは学生時代に短歌を始められてますよね。
櫻木:はい。大学の短歌の授業で作り始めました。その授業で短歌会の人たちと出会って、声をかけてもらい、学生短歌会に入りました。国内留学した時も京都の学生短歌に入れてもらいました。歌集を買って読み始めたのはその頃です。当時の学生短歌会の方たちは今すごく活躍されているんですが、例えば永田紅さんはその頃から歌集を出されていたので、私も『日輪』などを買って大切に読んでいました。永田紅さんは、永田和宏さんと河野裕子さんという、現代短歌界を代表する歌人のお嬢さんで、当時は大学院で研究をしていたと思いますが、時おり歌会にも来ておられました。
小説以外だと、上野千鶴子さんや河合隼雄さんを読むようになりました。上野千鶴子さんの『性愛論 対話篇』や『女ぎらい ニッポンのミソジニー』、それから精神科医の大平健さんの『豊かさの精神病理』や『顔をなくした女』などをすごく興味を持って読みました。
――国内留学って面白い制度ですね。募集があったのでしょうか。
櫻木:募集があって、申し込んで、面接を受けて、という流れです。留学中もちゃんと単位をくれるんです。当時、校内に「京都で燃えろ」みたいな募集のポスターが貼ってあって、「京都に1年住めるんだ」と思って。それで応募しました。